加藤楸邨


『芭蕉全句 上』

貞享年代

 昭和44年(1969年)3月10日、刊。

 『虚栗』の、

    角蓼蛍句
朝顔に我は食(めし)くふ男かな

になると、其角の「草の戸に我は蓼くふ螢かな」に和して詠んだ作で、「蓼食ふ虫も好きずき」という諺(ことわざ)を踏まえ、いささか世俗を嗤って奇を衒うところのある規格の態度に対して、朝顔に飯食ふ平凡な江戸庶民生活を対置したところに、かすかな笑いの余脈があるが、句そのものは従来の奇を主とした荘子的なものにくらべると、はるかに地味な、儒教的生活気分が土台になっていることが見られよう。



   年々や猿に着せたる猿の面

 歳旦(元禄六年)の述懐としては身を噛むような味がある。『赤冊子』に土芳が伝えるところによると、「人同じ所に止まりて、同じ所にとしどし落入ることを悔みていひ捨てたる」句だという。元禄五・六年の頃の重い生活の中にのがれがたい悔いを負いながら過していた姿がうかがわれよう。「軽み」は、そういう生活の重さ、芸境の停滞を身に負い、近づく老年の感を噛みしめた上での、新しい人生上の脱出路であり、また、芸道上の新探求だったのだと考えられる。



 最後の旅 元禄七年(一六九四)五月八日(十一日とも、五十一歳の芭蕉は郷里伊賀に向かって江戸を発った、「栖居之弁」から「閉関之説」を通じておのれを孤絶の境に立たせ、そこから新しい探求を試みての旅立と見てよかろう。無所住・無所著の重いに動かされて、なおはるかな無辺際の世界に歩み入る一つのよすがでもあったと思われる。この度は筑紫の果まで足を延ばそうという気持もあったらしい。人々と別れるとき、

   麦の穂を便につかむ別れかな

と詠んで、すでに衰老病弱の身の旅の果を予測しているようなところがあった。

 尾張を経て、五月の末郷里伊賀に入った。しばらく郷里に留まった後、京都・湖南方面に遊び、去来丈草支考らと交を重ねた。六月に入って江戸で病臥していた寿貞の死を知り、「何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理屈は無レ之候」(六月八日付猪平衛宛書簡)と嘆いている。七月伊賀に帰り、盆会に連なったが、

   数ならぬ身となおもひそ玉祭

と切々亡き寿貞に語りかけるような一句が生まれている。兄半左衞門の建ててくれた無名庵に二か月ほど滞留、月見の宴を催したり、門人と風交を重ねたりしていたが、九月八日、難波に出るために、寿貞の子次郎兵衛や惟然支考らの門人を伴って出発した。奈良では、

   菊の香や奈良には古き仏達

のすぐれた作をのこしている。九月九日の夕刻大阪の地に入り、洒堂の許に着いたが、翌十日の暁から悪寒を覚え、気分がすぐれなかった。しかし、それをおして諸方の俳筵に連なっていたのである。

   此道や行く人なしに秋の暮

という作があったのはこの頃で、孤独寂寥のの中にあった心境がうかがわれる作である。

   秋深き隣は何をする人ぞ

など、孤独の底から呟(つぶや)き出ずるような作を生んでいる。



 十月五日、花屋仁左衛門宅の裏の貸座敷に映り、支考をはじめ、湖南・伊勢・尾張などから集まった去来・丈草・木節・乙州正秀李由らにみとられていたが、十月八日深更、

   旅に病で夢は枯野をかけ廻る

の一句を詠んだ。そして「枯野をめぐる夢心」かなど案じ煩って支考の意見を徴したりしている。こういうことさえ妄執ではあるが、風雅の上に死なん身の道を切に思ふなり」(枯尾花)と述懐したり、一方では、「この後はたゞ生前の俳諧を忘れんとのみ思ふ」(笈日記)などと、人間的な安住の場を求める心と、芸道の執着になやむ相剋の姿が伝えられている。



   月ぞしるべこなたへいらせ旅の宿

 「折から」のこの月がよい道案内です。さあ旅のお宿をいたしましょう。どうぞこちらへおはいり下さい」の意。

 手法は、このころ流行した、謡曲を踏まえる貞門風の発想である。「鞍馬天狗」の「奥は鞍馬の山道の、花ぞしるべなる。此方へ入らせ給へや」の「花」を「月」とし、「旅」に「入らせ給へ」の「給へ」を「たべ」として掛けた技巧が発想の眼目になっている。謡曲「落葉」には「月を都のしるべにて」とも見える。

 『佐夜中山集』(重頼編)は巻末の記載により寛文四年(一六六四)六月の成立と思われるので、寛文三年以前の作。同書により『詞林金玉集』にも所収。『佐夜中山集』は出典書としては最も古いもので、松尾宗房の名で二句を収める。



   花は賤のめにも見えけり鬼薊

 鬼は人の目には見えぬものとされている。その名を負うた鬼薊も、花のないときは何の風情もなくて人の目に入ることもないが、その花が咲くと、どこか風情が加わって、心なき賤の目にも触れることだ」の意。



   時雨をやもどかしがりて松の雪

 「時雨が降ってみたり止んでみたり、いつまでも松の色を染めかねているのをもどかしく思って、雪が降りつもり、松の緑を一気に白に変じたものであろう」の意。

 慈円の「わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風騒ぐなり」(新古今集)が心にあって、雪を待つ意を「松」にかくした上でこうよんだものであろう。



      初瀬にて人々花見けるにBR>
   うかれける人や初瀬の山桜

 「古歌で知られた初瀬で花見をしたが、歌心もなく、ただ山桜のうなにうかれて、騒ぎに澤意でいる人ばかりが多いことだ」の意。

 裏に『千載集』の「うかりける人を初瀬の山颪(おろし」はげしかれとはいのらぬものを」(源俊頼)を置いた笑いである。古歌の「憂かりける」という貴族的な心持を「浮かれける」ともじって庶民の世界にひきおろし、「山颪」を「山桜」とかえて種明かしをしたところに、当時の技法があらわれている。

 出典より見て、寛文七年以前の作。



   杜若似たりや似たり水の影

 「杜若が水に映っているが、花と、に映ったその花影とは、ともに美しく、よくもこう似たものだ」という意。

 実際の水辺の杜若をよんだだけのものではなく、その裏に美人と比較してみた感じを寄せているのであろう。杜若とよく似たあやめには「さみだれに沢辺の真薦水越えていづれ菖蒲とひきぞわづらふ」(太平記)という頼政の故事があり、謡曲「杜若」に「菖蒲の鬘(かづら)の色はいづれ、似たりや似たり杜若花菖蒲(あやめ)」などとある。謡曲の詞を取ったおもしろさで、『続山井』には「青柳や似たりよ似たり糸桜」などという句もあって、当時喜ばれた型通りの表現だったことがわかる。

 『詞林金玉集』にも『続山井』により所収。出典よりみて、寛文七年以前の作。



   きてもみよ甚べが羽織花衣

 「花見衣として、甚兵衛羽織を着こんで花見に来てごらん。この花の見事さに感嘆する以外はないだろう」という意。

 発想の眼目になるのは、当時世人の口に乗っていた流行歌謡の口調を句にとり入れたところにある。『貝おほひ』の中では、九番、「鎌できる音やちよいちよい花の技―露節」を左とする右の句で、自ら判詞の中で、「右の甚べが羽折は、きて見て、我折りやと、いふこゝろなれど……」と述べているように、小唄などの文句であることが明らかである。その唄の詞は今ははっきりしないが、『万歳踊』・『松の葉』・『落葉集』などに「きてもみよ」のことばは頻出し、着ても見よ野は花染のふぢばかま―正景」(伊勢俳諧発句帳)などを初め、多くの集に好んで使われた手法であった。「我折りや」は「我を折れよ」の意で、感心せよということである。後出ん「見るに我も折れるばかりぞ女郎花」が参考みなろう。

 寛文十一年ごろの作。芭蕉二十二歳ごろにあたる。



   雲と隔つ友にや雁の生き別れ

 「春になって雁が遠く北へ去るごとく、今自分はあなたにも別れ、江戸をめざして、故郷を立ち離れようとしている。今後あなたとはまさに『雲と隔つ』離れ離れの間柄となるであろう。しかしながら、これはあくまで仮の生き別れであって、秋になるとふたたび雁が訪れるように、また相逢う機会もあるでしょう」の意。

 『毛吹草』に「帰雁友をしのぶ」とあって、これを心にした発想であろう。しかし、留別の情を帰雁に寄せたものとすると、寛文期の作風としては、かなり異質のものとなるようである。それで、この期の作とすれば、「雁の別れ」に「仮の別れ」の心がかくされているものと思う。したがって、「雁」はカリと読むべきなのであろう。

 『芭蕉翁全伝』(宝暦十二年序・竹人著)に、「かくて蝉吟子の早世の後、寛文十二子の春二十九歳仕官を辞して甚七とあらため」という文につづいて出ている。『冬扇一路』(宝暦八年成・鳥酔編)・『芭蕉翁絵詞伝』(寛政五刊・蝶夢著)・『芭蕉翁正伝』(寛政十年刊・。竹二坊著)などには「雲とへだつ友かや雁の生き別れ」の形で出、短冊を隣家の城孫太夫の門の柱に残して出奔したよしを記す。かつ、『冬扇一路』には、「此真蹟は勢州亀山の城士何がしが手に渡り、今行方をしらすと。惜しむべし」と注記している。年次については、『冬扇一路』は三十歳とし、『絵詞伝』・『正伝』は寛文六年秋とするが、『全伝』に従うべきであろう。その他『奥の細道菅菰抄』・『もとの水』にも、「友かや」の句形で所出。後者には「遁世のとき」と前書がある。



延宝年代(芭蕉30歳より38歳)

   此の梅に牛も初音と鳴きつべし

 「初春を寿(ことほ)いで、この天満宮の社前の梅に、鶯は初音をはりあげているが、これに誘われて社前の臥牛の像までも、我も初音しようと泣き出すにちがいない」の意。

 天満宮に奉納する句として、天神にゆかりのある梅と牛とを取り合わせ、特に「牛も」といって鶯を内にひそめてしまったところが俳諧的な趣向である。延宝三年五月、江戸に下った談林の中心西山宗因と一座したおりの連句に「桃青」の名が初めて見えているが、談林の新風に魅せられ、俳諧への執心もたかまりつつある時期の作である。宗因は梅翁と号したので、「此の梅に」といったところに、梅翁の風、すなわち談林風への初音をあげようという意慾がかくされているものとみてよいであろう。もちろん、牛に鈍重な自分が託されているわけである。



   夏の月御油より出でて赤坂や

 「夏の夜の月は出たと思うとすぐに入ってしまう。まるで東海道五十三次の中で、御油を出てからたった十六町で赤坂へ着いてしまうのと同じような感じである」の意。

 実景をよんだものではなく、比喩的媒介をとって仕立てた句である。元来御油と赤坂とは海道でも知られたたわれ女の多かったところ、殊に赤阪は古来東海道随一の遊興の地で、西鶴の『一目玉鉾』によると元禄に入ってからは衰えたらしいが、以前は大いに繁昌した土地柄である。句の裏に遊興地の御油どまりだった旅人が、たった十六町の赤坂で留女の手に引留められてしまうことを写しているのであろう。この句は、東海道の旅の経験を土台として生かしているところがあり、そこが新味だったわけである。二十年後になって「今もほのめかすべき一句」としているのも、なかなか暗示的である。地名の与える色彩感や耳に与える効果を説く説、象徴的な匂いを指摘する説などがあるが、たしかに「御油」という地名と、御油から出る赤い月の感じを「赤阪」という地名にかけたところは注目すべき…であると思われる。



   武蔵野や一寸ほどな鹿の声

 「ひろびろとして際限もない武蔵野では、何もかも小さく見える。鹿の声がきこえてきたが、その声さえ一寸ほどの感じだ」というのである。

 「一寸ほどな」というところから角を予測させておいて、「声」と転じたおかしさをねらった作であろう。

 『俳諧当世男』(延宝四年七月序・蝶々子編)に、「桃青」作として出ている。『板東太郎』(延宝七年序・才麿編)には西望の句として出ていて、疑問が存するが(刊行の古いほうに従い、芭蕉作と認める。延宝四年以前の作。



   一時雨礫や降つて小石川

 「時雨が一しきり降りつけるさまは、あたかも小石でも降りつけるようである。さてはこの時雨の小石が川をなしたのがこの小石川なのだな」の意。

 「小石川」という名辞にすがった発想。ちょうど村時雨を目にしたので即興的によんだものであろうが、談林的な面白味は乏しい。発想の類似するものに、延宝四年の『到来集』に「江戸小石川にて 小日向の雪やとけ来て小石川−言水」という句が見える。

 『江戸広小路』(延宝六年自序・不卜編)所出より見て、延宝五年以前の作。『芭蕉句選拾遺』『芭蕉翁發句集』にも所収。戸田権太夫という人のもとでの席上吟とする。



   見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

 「須磨の秋」は、古典でもあわれ深いものとされているが、実際にいろいろ眺めれば眺めるほどまたとなくあわれ深いことだ」の意。

 同じことを異なった表現で三つたたみかけて言った点に談林的な遊びがあり、秋の趣の実感はない。

 「見渡せば詠むれは見れば」は、いろいろに見れば見るほどの意を三通りにわけて言ったもの。蓼太の『芭蕉句解』には「見渡せばとは明石より淡路の風景におよべるか、詠むればとは旧事をおもひながむる心にや、見ればとは須磨の眼前をいふなるべし」とある。あるいは「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の笘屋の秋の夕ぐれ」(新古今・秋下・定家)・「ながむればちぢにもの思ふ月にまたわが身ひとつの峰の松風」「新古今・秋上・長明」などの句をとる意識があったものか。なお、いわゆる三夕歌はよく俳諧の種に使われており、信徳の「花も紅葉もなかりけり鳥橋杭に五月雨」などという句が『五の戯言』にある。この本は元禄になってからのものだが、この句など延宝・天和頃のものであろう。「詠む」は物思いにふけりながらじっと見るの意の中古語。「須磨」は源氏流謫の地として名高い。『源氏物語』に「またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり」とあるところである。秋の雑の句。



   花木槿裸童(わらは)のかざしかな

 「この裸童子が花木槿を持った図は、そのひなびたとりあわせがしっくりしていて、古人が桜をかざしとしたのに対して、花木槿は里童のかざしにまことにふさわしい感じだ」の意。

 『新古今集』の「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ」(山辺赤人)などを念頭に置いて、「昔の大宮人は桜をかざしたとしたものだったが」の意を裏にこめた発想だと思われる。画賛の句なので、即興的に作ったものであろう。『句選年考』に「按ずる延宝の作なれば、細かなる毛をムクゲといへば、裸身にて吟じけるか」とあるのはあたらない。

 出典よりみて、延宝八年ごろの作。『吐綬鶏』にも所収。『東西夜話』は真蹟により「裸子の花もちたる画の賛に」と前書、中五「裸わらはの」と表記。『芭蕉盥』には「裸子の木槿の枝持ちたるに」と前書して所収。真蹟画賛には「花むくげ裸わらハのかざしかな」とあり「芭蕉庵主桃青」と署名するが、やや後の染筆か。『蕉翁句集』は、真蹟によるとして中七「はだかわらべの」とする。



   枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

 「枯枝に烏がとまっているが、そのさまはまことにものさびしい限りであって、これこそ秋の暮にふさわしい赴であるよ」の意。

 自然の実景に感合して成った句ではなく、「秋の暮」の情趣を水墨画ふうの「寒鴉枯木」という情景に見出だしたと興じているのである。『泊船集』には「秋のくれとは」という前書があるが、それだと句は、その間に答えるような発想をとっていることになる。その点、後の『曠野』の句形は純粋な自然観照の句となっているが、原句のもっていたはりが失われたようである。この句は蕉風頓悟の句として喧伝されているが、それは誇張であって、談林から蕉風への一過程を示すものにとどまる。『ほのぼの立』で高政が古風とか中古の風に対して、当風の句としているように、談林のわくを出ていず、句の質としては「夜竊かに虫は月下の栗を穿つ」のほうが、蕉風への源流をなすものであろう。しかし、こうして道具立としてとりこまれた古典ないし漢詩文的なものが、内奥において摂取されるにいたり、蕉風が確立してくるのである。



天和年代(芭蕉38歳より41歳まで)

   春立や新年ふるき米五升

 「新しい春が立って、この庵にも春らしい気分が漂っている。この新春は、去年の暮に門人の満たしてくれた五升の古米が、そっくり手つかず貯えられていて、なんとも満ち足りた思いがすることだ」の意。

 この句は再案の後成ったもので、草庵のわびしいながら満ち足りた心に、素直に滲透した発想となっている。すでに蕉風の域に達しているといってよいであろう。上五を「似合しや」とした初案の形であると、理詰めなところや、「新年ふるき米五升」にわびしい草庵生活にふさわしいとことさら興じているところなど、一種の衒いの気持があらわれで、天和初年の過渡的な発想が姿をとどめていることになる。



   藻にすだく白魚やとらば消ぬべき

 「藻のあたりに群れ泳いでいる白魚は、清らかに透きとおって、そのかぼそくあえかな姿は、手にすくいとったなら、きっと消えうせてしまうにちがいないと感じられるほどだ」の意。

 談林の戯れを脱しようとする努力が、和歌的な表現の摂取というかたちであらわれている句である。しかし、白魚の本質的なものをもたしかにつかみとっていることは認めなくてはならない。『東日記』には「白魚」の題下に才丸の「笹折りて白魚のたえだえ青し」と並んで出ており、この時代の志向をうかがうことができる。才丸の句は、笹の青さと白魚の白さとが交互に並ぶところに「たえだえ青し」と興じた談林的発想。芭蕉の場合は、白魚そのものに即しているところがずっと鋭い。

 出典よりみて延宝九年ごろの作。『蕉翁句集』には貞享元年と誤る。『蕉翁句集』・『芭蕉句選拾遺』には中五「白魚も取らば」とあるが誤りであろう。下五、『東日記』・『蕉翁句集』に「消ぬへき」と表記し、在来「キエヌベキ」とよまれてきたが、これは「ケヌベキ」と和歌的に読むべきかとおもう。「白露をとらばけぬべしいざや子ら露にきほひて萩のあそびせん」(万葉集・古今六帖)が参考となる。なお、真蹟短冊には「消ぬへし」・『芭蕉句選拾遺』には「消へぬへき」とある。



   郭公招くか麦のむら尾花

 「尾花(薄)が穂をそよがせるのは、古来人を招くのだといわれているが、麦の穂が尾花のようにそよぐのは、あれは人を招くのではなくて郭公を招いているのであろうか」の意。

 和歌によみ古された尾花を麦の穂の風情に転じ、その時節にふさわしい郭公を招くのかと案じだしたところに俳諧があったのである。これも一つの見立てであるが、それにとどまらず、和歌の情趣を句の味として言い取っている点に工夫が見られる。

 『遅れ双六』(延宝九年序・清風編)所収なので、延宝九年以前の作。『蕉翁句集』は貞享元年と誤る。『武蔵曲』・『菊の香』『泊船集』・『のぼり鶴』(「自画賛」と前書)などにも所収。真蹟も二種伝わり、文台にも記された句。風国編の『初蝉』(元禄九年刊)には中七「まねくや」と誤り、『菊の香』(元禄十年序)で「まねくか」と訂正。『蕉翁句集』も「まねくや」と誤る。



   芭蕉野分して盥に雨を聞夜かな

 「野分が吹きつのって、外の芭蕉はしきりにはためいており、雨漏りにあてがった盥にはしきりに雨水が滴って聞こえる。まことに侘びしい茅屋の夜の感じだ」の意。

 出典よりみて、天和元年秋ごろの作。『泊船集』・『枯尾花』(雨中吟)と前書)・『芭蕉翁全傳』『芭蕉盥』等にも所収。「芭蕉野分して盤に雨を聞夜哉」・「芭蕉暴風して盤に雨を聴夜哉」と表記する真蹟も伝えられている。『三冊子』には「芭蕉野分盥に」の句形で出し、「はじめは、野分してと二字余りなり……後なしかへられ侍るか」とある。『蕉翁句集』・同草稿は『三冊子』の句形で、前者に「深川菴と前書、後者に『三冊子』と同旨の注記がある。禹柳の『伊勢紀行』は、「斗時庵が家珍に」として、「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたび此の句を侘びて、屋漏の句作る。其の世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」という前文とともに『武蔵曲』の句形で掲出し、「是は深川庵中の吟にて、これより芭蕉の翁とは世にもてはやす事になりし」と付記する。これによれば、杜甫・蘇東坡の詩を念頭においた作で、かつ当時代表作としてもてはやされたことがわかる。



   発句なり松尾桃青宿の春

 「わが松尾桃青の草庵の春は、浮世のはなやかなそれと違って、ただ発句にあるのみ」という意。

 「発句なり」と言いきったところ、世の慣わしと異なる寂しさを味わいつつ、一面誇りを宣言したという感じである。

 『芭蕉盥』(享保八年刊、朱拙・有隣編)に「歳首」の部に出し、「貞享年中の吟、素堂・其角と三つ物あり」と注記、『芭蕉句選拾遺』にも同旨の注記をして所収。ただし句の性格・声調からみて入庵当時の作と推定し、ここに置く。『芭蕉新巻』に中七「ばせを桃青が」、また。『芭蕉翁句解参考』に上五「発句あり」とある。



   花にうき世我が酒白く飯黒し

 「世の人は花に浮かれ楽しんで、美酒や白米で楽しい生活をしているが、自分はその花をよそに憂き世に生きて濁酒を飲み、よく搗いていない飯を食って貧しく暮らしている。こうして貧しく暮してみると、古人が言った酒の聖なることとか、銭の神なることとかが、身に染みてわかってくるようだ」の意。

 漢詩文に句を対置するゆき方は、延宝以来其角が常用したことであるが、この句では一種の連句的な発想になっているのである。この句の「我が酒白く」云々は、貧しい生活にいて浮世を白眼視したものでもなく、羨んだものでもなく、貧しさをあるがままに受け容れて、やや自ら歎きながら、世外の自分をしずかにながめたみているこころである。

 『虚栗』(天和三年五月芭蕉跋・其角編)に歌仙の発句として所出、脇は「眠を尽す陽炎(かげぼし)の痩―一晶」。歌仙の連衆の顔ぶれおよび二年暮に芭蕉庵が焼失している事実から考えて、二年春と推定される。



   貧山の釜霜に啼く声寒し

 「貧乏寺の台所で、霜夜窯がひそかに煮え音をたてている。それは窯が霜に啼くようなわびしい感じだ」の意。

 「寒し」には季節的なものだけでなく、乏しくうらぶれた感じを「さむざむとした」という場合のような、気分的なものが寄せられているわけである。漢詩文のいかめしい詩句が、ぐっとくだけた江戸生活の日常性の中にひきおろされたところに、このころの笑いがあったのである。

 出典よりみて天和二年以前の作。『泊船集』『蕉翁句集』にも所出。真蹟懐紙もある。



   世にふるも更に宗祇のやどりかな

 「今手ずからはったこの渋笠をたのみとして、漂泊の生涯を送ろうとしているが、昔あの宗祇がこの人生を観じて『時雨のやどり』であると詠んだことが今更のように思いあわされる。ひとえにその宗祇の心を心として侘びに住しようとするものである」との意。

 渋笠をはって興ずるうちに、宗祇敬仰の念が湧きあふれて発した句である。宗祇の句を知らないと句意がつかめないが、宗祇の句を自明のこととして発想し、わずかに「時雨」を「宗祇」とかえただけの即興的な表現をとっているのである。「渋笠ノ銘」には、「西行法師の富士見笠か、東坡居士の雪見笠か。宮城野の露に供つれねば、呉天の雪に杖をやひかむ。霰にさそひ時雨にかたむけ、そぞろにめでて殊に興ず。興のうちにして俄かに感ずる事あり。ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、みづからの笠のうらに書きつけ侍る」として句が出ている。なお「ふたたび……うるほして」に該当する部分は、別稿には「ふたたび宗祇の時雨にぬれて」(雪満呂気)・「ふたたび宗祇の時雨に袂をうるほし」(真蹟巻子・思亭)とある。後、杉風の手により、この句の真蹟短冊をあるじとして深川の長慶寺に発句塚が築かれた(『芭蕉庵小文庫』『笈日記』・『雪の葉』)。



   清く聞かん耳に香焼いて郭公

 「耳に名香をたいて心気を澄まし、清らかな耳になって時鳥の声に聞き入ろう」の意。

 「聞かん」を掛詞にしたり、「耳に香焼いて」といったり奇をてらったところがあり、談林臭が濃く残っている句である。

 出典よりみて、天和三年以前の作。『泊船集』『蕉翁句集』にも所収。

 「清く聞かん」は郭公の声を清く聞かんの意と、香をたいてそれを清くきかんの意とをかけている。香をかぐことを「香をきく」という。「清く」は和歌ではほととぎすの声の形容に用いられたことば。「耳に香焼いて」については、『句選年考』に「東山殿鴨川へ千鳥聞きに出で給ふ、同じく千本道貞と云ふ者も袖に蘭奢待をたきて出づる由、義政公聞き給ひ、袖香炉を御取かはし有りて、今の世に大千鳥小千鳥とて名物なり」とあるように、千鳥などを聞く場合に香をたいて心気を澄ます故実があった。なお右の文は『とくとくの句合』の判詞を引いたものである。



   馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな

 「この広々とした夏野を、馬にゆられて馬の歩みのままにぼくぼくと進んでゆく。この夏野の中の我が姿を一幅の絵として、心に眺めてみるとなかなかおもしろい」の意。

 詞書のように、この句をはじめから画賛としてみると、画中の自分の姿に興じたものということになる。しかし、夏野をゆく自分の姿を我とかえりみて興じたものととったほうが、ずっと句がはたらいてくる。

 『泊船集』許六書入れ・『三冊子』・『赤冊子草稿』・『続年矢集』等にも所収。『一葉集』の付合之部には、「夏馬(かば)の遅行我を絵に見る心かな」、同発句之部には、「甲斐の郡内といふ処に到る途中の苦吟」と前書して「夏馬ぼくぼく我を繪に見るこゝろ哉」とある。『泊船集』には、「馬ぼくぼく我を絵に見る枯野かな」として、「この句、夏野かな、ともある人申されし」と注記する。『水の友』には、「此句、泊船集に冬(ママ)野かなあやまれるゆゑ、ここにしるす」、『赤冊子草稿』には、「文通に聞こゆる句なり。泊船には、枯野哉と有り。はじめは、「夏馬ぼくぼく我を画に見る茂り哉、と有り。心哉、とも」と注記、『三冊子』にも同旨の記載がある。真蹟短冊・杉風筆画賛には、「馬ぼくぼく我を絵に見ン夏野哉」とある。「夏馬の遅行」を初案として、種々改案が試みられ、その過程の形が世に伝わり、さらに画賛としても転用されたものであろう。『続年矢集』に「鳴海にて」と前書するが、『一葉集』の前書のごとく、芭蕉庵焼失後、天和三年甲斐流寓中の作であろう。『一葉集』所収歌仙の脇は「麦手(一説に「変手」ぬるゝ滝凋む滝―麋塒。『蕉翁句集』は貞享元年とする。

貞享年代

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