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田むらの御時に、事にあたりてつのくにのすまとい ふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人に つかはしける
在原行平朝臣 |
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わくらばに問ふ人あらばすまのうらにもしほたれつゝわぶとこたへよ |
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おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋ども、葦ふける廊めく屋などをかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、様変りて、かかるをりならずはをかしうもありなましと、昔の御心のすさび思し出づ。
源氏物語(須磨) |

| おはすべき所は行平中納言の |
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| 藻潮たれつつわびける家居近き |
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| わたりなりけり海面はやや入りて |
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| あはれにすごげなる山なかなり |
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行平中納言は在原業平の兄。『小倉百人一首』の歌「立別れいなばの山の嶺におふるまつとし聞かば今帰り来む」で知られる。 |
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この石碑には源氏物語の須磨の巻の一説が書かれています。 現光寺は紫式部が書いた源氏物語の主人公光源氏が、従者数人と京より須磨に退去した際、わび住まいをしていたところと古来より語り継がれてきました。このことから「現光寺」は以前は「源氏寺」とか「源光寺」と呼ばれていました。 この石碑は、もともと現在の場所より北西約20メートル離れたところに建てられていましたが、阪神淡路大震災後の都市計画道路千森線の整備にあわせて、新しく再建された現光寺の門前へ移されました。 |

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誠や我ながら心より外なるなほざりごとにてうとまれ奉りしふしぶしを思ひ出づるさへ胸痛きに又怪しう物はかなき夢をこそ見侍りしか。斯う聞こゆる問はず語りに隔てなき心の程は思し合せよ。 |
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此景此情實を寫して心こまかに趣あることの不思議なる迄にも妙なりや。我友不折曰ふ、覺猷僧正の畫ける動物は形正しくして卑しからず。しかも其代はもとより後にも前にも似よりたるものだになし。今の世の西洋畫學ぶ人だに斯うは得畫かじと。世には其時の勢にもつれず風にも染まで獨り秀でたる人のあるものなめり。 かう思ひ續くるにふと窓に映る松の影もをかしくて 讀みさして月が出るなり須磨の巻 |

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謡曲「須磨源氏」は、日向国宮崎の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立寄ると、老樵夫が桜の木陰から現われ、光源氏の一代の略歴を物語り、自分はその化身であることを仄めかす。その夜旅枕の興範の前に菩薩となっている光源氏が兜卒天より気高く優麗な姿で天下り、在りし日の須磨のくらしを回想しつつ、青海波の舞を舞って夜明けと共に消え失せるという典雅な曲である。 須磨は古来、観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心をなぐさめるのに格好の地だ、と今を去る千年の昔に生きた紫式部も知っていたのでありましょう。 源光寺、源氏寺とも呼ばれ、境内の老松に月のかかった秋の夜など、殊更流離の源氏の君が藩架(ませがき)をめぐらして侘び住まいしたところと語り継がれてきている。
謡曲史跡保存会 |

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「須磨の秋」は、古典でもあわれ深いものとされているが、実際にいろいろ眺めれば眺めるほどまたとなくあわれ深いことだ」の意。 同じことを異なった表現で三つたたみかけて言った点に談林的な遊びがあり、秋の趣の実感はない。 「見渡せば詠むれは見れば」は、いろいろに見れば見るほどの意を三通りにわけて言ったもの。蓼太の『芭蕉句解』には「見渡せばとは明石より淡路の風景におよべるか、詠むればとは旧事をおもひながむる心にや、見ればとは須磨の眼前をいふなるべし」とある。あるいは「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の笘屋の秋の夕ぐれ」(新古今・秋下・定家)・「ながむればちぢにもの思ふ月にまたわが身ひとつの峰の松風」「新古今・秋上・長明」などの句をとる意識があったものか。なお、いわゆる三夕歌はよく俳諧の種に使われており、信徳の「花も紅葉もなかりけり鳥橋杭に五月雨」などという句が『五の戯言』にある。この本は元禄になってからのものだが、この句など延宝・天和頃のものであろう。「詠む」は物思いにふけりながらじっと見るの意の中古語。「須磨」は源氏流謫の地として名高い。『源氏物語』に「またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり」とあるところである。秋の雑の句。 |
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『諸国翁墳記』に「翁 塚 行脚花笠建 見渡せハミれハなかむれハ須磨の秋」とある。 |
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『摂津名所図会』に「源光寺の門前にあり、近世豊後の俳士、芳羅坊之を建つる」とあるが、現在不明。 |
