蕉 門
西山宗因
談林派の祖。俳号は一幽、宗因は連歌名。梅翁。芭蕉は宗因門下。八代城代加藤正方に仕える。
童名金作後に藤七郎又忠右衛門宗房といふ。主従ともに滑稽の道に志篤く、貞徳老人の流れを汲み、恪の季吟貞室、攝の宗因等にしたしみ遊ふ事歳あり。
慶長10年(1605年)、肥後に生まれる。
寛永10年(1633年)9月、熊本を出立。10月15日、入京。「肥後道記」
寛永16年(1639年)、讃岐に遊ぶ。「水くらげ」
正保4年(1647年)、西山宗因は大坂天満宮連歌所の宗匠となる。
大坂天満宮に宗因の句碑がある。
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浪華津にさく夜の雨や花の春
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なかむとて花にもいたし首の骨
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寛文2年(1661年)3月初め、宗因は難波を出発して松島へ旅立つ。「西翁道之記」「松島一見記」
寛文3年(1664年)、宗因は豊前小倉の藩主小笠原忠真公の招きに応じて西下。8月10日頃太宰府安楽寺に詣でる。「筑紫太宰府記」
延宝3年(1675年)、宗因は江戸へ下る。
| 西山氏
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されば爰に談林の木あり梅の花
| 梅翁
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世俗眠をさますうぐひす
| 雪柴
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此梅に牛も初音と啼つべし
| 桃青
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ましてや蛙人間の作
| 信章
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延宝9年(1681年)、観音寺の僧宗実大坂に出て一夜庵再興の勧進。『一夜庵建立縁起』刊。
天和2年(1682年)3月28日、78歳で没。
寛政4年(1792年)、谷素外は二代井原西鶴の百回忌を記念して、「梅翁花樽碑」を建立。
於我何有哉
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江戸をもつて鑑とす也花に樽
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誹談林初祖 梅翁西山宗因
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文化6年(1809年)3月、菜窓菜英は浅草寺に三匠句碑を建立。
ながむとて花にもいたし頸の骨
| 宗因
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花の雲鐘は上野か浅草か
| 芭蕉
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ゆく水やなににとどまる乃里(のり)の味
| 其角
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文化9年(1812年)、谷素外は宗因白露の句碑を建立。
白露や無分別なる置きどころ
八代市の春光寺に宗因の句碑がある。
ながむとて花にもいたし首の骨
宗因の句
聖護院の宮覚寛法親王みね入
有しを拝み侍りて
峯入は宮もわらぢの旅路哉
葉茶つぼやありともしらでゆくあらし
遙なる唐茶も秋の寐覚哉
ながむとて花にもいたし首のほね
芋は芋はまつ月をうるゆふへ哉
つくしにて
世の中のうさ八まんを花に風
秋の花
まうしまうし六藏か申女郎花
人丸の社頭に月を見て
いやるないの所は明石三五の暮
はこさきや八幡大名萩の庭
太守公の御前にて
御ン門や箱崎生の松かさり
莊子の畫賛
世の中よ蝶々とまれかくもあれ
しら露や無分別なる置所
白露や無分別なる置所
しら露や無分別なる置所
夏山は寢ざめの枕屏風哉
なのはなや一本咲し松のもと
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