芭蕉ゆかりの地

〜芭蕉翁故郷塚〜


| 元禄7年(1694年)芭蕉51歳の作。季語「墓参り」で秋。夏、大津に滞在していた芭蕉が兄松尾半左衛門より手紙で郷里に招かれ、伊賀上野へ帰郷し、一家そろって当寺の祖先の墓に詣でた折の句。句の成立は、支考の『笈日記』や『芭蕉翁追善之日記』に、「七月十五日」とする。土芳の『三冊子』によれば「家はみな、はじめは、一家みな、とあり。」とあることから、『芭蕉翁行状記』などに収められる「一家みな白髪に杖や墓参り」が初案で、後に『続猿蓑』(沾圃芭蕉撰)に収める際、この「家はみな」の句形に推敲された。長い歳月を経て、故郷の親族が誰もかも年老いてしまった寂しさ、生き永らえて睦まじく先祖の墓参りをする懐かしい喜びが巧みに表現され、しみじみとした老境の感慨や、言いがたい寂寥感の漂う句である。 句意は、「故郷の盆会に一族の者と墓参りにでかけた。みな年老いてしまい、杖をつき白髪の者もいる。自分もまた同じように、年をとってしまったものだ。」 |
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家はみな杖に白髪の墓参り 旧里にかへりて盆会をいとなむとあれば皆年経てあへば親類いつの間にか頭の雪と成り、思へば我もかくあらん、光陰のうつりやすきに今や又誰か先たち、誰か後れて墳墓の主とならんに観念したまへる一作膓を断つ。 |

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尾張を経て、五月の末郷里伊賀に入った。しばらく郷里に留まった後、京都・湖南方面に遊び、去来・丈草・支考らと交を重ねた。六月に入って江戸で病臥していた寿貞の死を知り、「何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理屈は無レ之候」(六月八日付猪平衛宛書簡)と嘆いている。七月伊賀に帰り、盆会に連なったが、 数ならぬ身となおもひそ玉祭 と切々亡き寿貞に語りかけるような一句が生まれている。 |

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元禄7年(1694年)芭蕉51歳の作。季語「玉(魂)祭り」で秋。『有磯海』(浪化編)に「尼寿貞が身まかりけるときゝて」と前書きする。「身まかる」は人が亡くなること。「玉(魂)祭り」は、陰暦7月15日に祖先の霊を祭る仏事、盂蘭盆会をいう。伊賀上野で盆会を迎え、一族の人々と共に法要を営んだ芭蕉が寿貞の死を悼み詠んだ句。寿貞に関する資料は元禄7年5月以降の芭蕉の手紙5通(内、遺書1通)と、この追悼句1句のみで、不明な点が多く、芭蕉の甥桃印の妻とする説、など諸説ある。5月11日、芭蕉が上方へ旅立った後、寿貞は芭蕉庵へ身を寄せていたが、6月2日頃病歿した。旅中、寿貞の訃報に接した芭蕉は、「寿貞無仕合もの、まさ・おふう(ともに寿貞の娘)同じく不仕合、とかく難申尽候。」(同年6月8日付猪平衛宛芭蕉書簡)と、その死を深く嘆いている。「数ならぬ身となおもひそ」に、芭蕉の寿貞の霊に対する悲痛な呼びかけと、情愛が感じられる。 句意は、「自分のことを物の数にも入らない身だと決して思わなくていいよ。どうぞ私の心からの供養を受けてください。」 |

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芭蕉の句「白菊の目にてゝ見る塵もなし」をふまえて吟じたもので、冬の白菊の優美に加え色香ただよう高貴な句。 |



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芭蕉翁の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺に葬られたが、訃報をうけて、翁の臨滅に馳せ参じた伊賀の門人貝増卓袋、服部土芳は生地に遺髪を奉じて帰り、先塋の傍に墳を築いて故郷塚ととなえた。 |

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元禄8年(1695年)、丈草は伊賀へ赴き、芭蕉の墓に詣でている。 |
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いがへおもむくとき、ばせを翁墓にまう でゝ ことづても此とを(ほ)りかや墓のつゆ |
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宝暦8年(1758年)3月、鳥酔は愛染院に詣でる。 |
几右老人にいさなはれて愛染蜜院に詣 祖翁の碑前にかしこまるは| 生涯の本意なり。此碑や元禄それの年義仲寺と一時に建たりとかや、 | 文字の古ひさも覺へていと尊し。今扶桑に靈塚多しといへとも、此國 | は出生地といひ先祖奕代の精靈をまつれる淨刹なれは、翁の精神も | かならすこゝにあつまり給ふなるへし。 | 家内皆杖に白髪の墓参とありし吟は、此精舎にての事なりとそ | いたゝきに乙鳥も來たり塚の土 | 鳥醉 |
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