芭蕉ゆかりの地


〜芭蕉翁故郷塚〜

伊賀市上野農人町に愛染院という寺がある。


愛染院山門


山門の右手に「芭蕉翁故郷塚」の碑がある。

愛染院は芭蕉の生家松尾氏の菩提所。

真言宗豊山派の寺である。

本堂の手前左手に芭蕉の句碑があった。


家はみな杖にしら髪の墓参り

 元禄7年(1694年)芭蕉51歳の作。季語「墓参り」で秋。夏、大津に滞在していた芭蕉が兄松尾半左衛門より手紙で郷里に招かれ、伊賀上野へ帰郷し、一家そろって当寺の祖先の墓に詣でた折の句。句の成立は、支考の『笈日記』や『芭蕉翁追善之日記』に、「七月十五日」とする。土芳の『三冊子』によれば「家はみな、はじめは、一家みな、とあり。」とあることから、『芭蕉翁行状記』などに収められる「一家みな白髪に杖や墓参り」が初案で、後に『続猿蓑』(沾圃芭蕉撰)に収める際、この「家はみな」の句形に推敲された。長い歳月を経て、故郷の親族が誰もかも年老いてしまった寂しさ、生き永らえて睦まじく先祖の墓参りをする懐かしい喜びが巧みに表現され、しみじみとした老境の感慨や、言いがたい寂寥感の漂う句である。

 句意は、「故郷の盆会に一族の者と墓参りにでかけた。みな年老いてしまい、杖をつき白髪の者もいる。自分もまた同じように、年をとってしまったものだ。」

   家はみな杖に白髪の墓参り

旧里にかへりて盆会をいとなむとあれば皆年経てあへば親類いつの間にか頭の雪と成り、思へば我もかくあらん、光陰のうつりやすきに今や又誰か先たち、誰か後れて墳墓の主とならんに観念したまへる一作膓を断つ。


はせを故郷塚


文化2年(1805年)、長月庵若翁建立。

故郷塚の手前右手に芭蕉の句碑があった。


数ならぬ身となおもひそ玉祭り

 元禄7年(1694年)芭蕉51歳の作。季語「玉(魂)祭り」で秋。『有磯海』(浪化編)に「尼寿貞が身まかりけるときゝて」と前書きする。「身まかる」は人が亡くなること。「玉(魂)祭り」は、陰暦7月15日に祖先の霊を祭る仏事、盂蘭盆会をいう。伊賀上野で盆会を迎え、一族の人々と共に法要を営んだ芭蕉が寿貞の死を悼み詠んだ句。寿貞に関する資料は元禄7年5月以降の芭蕉の手紙5通(内、遺書1通)と、この追悼句1句のみで、不明な点が多く、芭蕉の甥桃印の妻とする説、など諸説ある。5月11日、芭蕉が上方へ旅立った後、寿貞は芭蕉庵へ身を寄せていたが、6月2日頃病歿した。旅中、寿貞の訃報に接した芭蕉は、「寿貞無仕合もの、まさ・おふう(ともに寿貞の娘)同じく不仕合、とかく難申尽候。」(同年6月8日付猪平衛宛芭蕉書簡)と、その死を深く嘆いている。「数ならぬ身となおもひそ」に、芭蕉の寿貞の霊に対する悲痛な呼びかけと、情愛が感じられる。

 句意は、「自分のことを物の数にも入らない身だと決して思わなくていいよ。どうぞ私の心からの供養を受けてください。」

浜松の俳人大蕪庵十湖の句碑もあった。


白菊に紅さしてくるはつしぐれ

 芭蕉の句「白菊の目にてゝ見る塵もなし」をふまえて吟じたもので、冬の白菊の優美に加え色香ただよう高貴な句。

故郷塚の手前左手には「偲翁碑」があった。


昭和18年(1943年)11月、芭蕉翁二百五拾年忌に蟻塔会建立。

碑陰に塩田紅果の句が刻まれている。

はれやかに咲いてさびしき冬佐く良

長月庵若翁の句碑もあった。


落る身を花に啼入る雲雀かな
      (※「雲雀」は「舌」+「鳥」)

文化7年(1810年)8月、若翁は芭蕉翁故郷塚を再興したそうだ。

文化10年(1813年)12月8日、80歳で没。

弘化3年(1846年)、若翁の三十三回忌に門人逢室、芭蕉元社が建立。

故郷塚


 芭蕉翁の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺に葬られたが、訃報をうけて、翁の臨滅に馳せ参じた伊賀の門人貝増卓袋、服部土芳は生地に遺髪を奉じて帰り、先塋の傍に墳を築いて故郷塚ととなえた。

塚の碑


元禄七年甲戌年
芭蕉桃青法師
十月十二日

元禄7年(1694年)11月、建立。服部嵐雪筆。

『諸国翁墳記』に「翁 塚 伊賀上野愛染院」とある。

 元禄8年(1695年)、丈草は伊賀へ赴き、芭蕉の墓に詣でている。

   いがへおもむくとき、ばせを翁墓にまう
   でゝ

ことづても此とを(ほ)りかや墓のつゆ


 宝暦8年(1758年)3月、鳥酔は愛染院に詣でる。

 几右老人にいさなはれて愛染蜜院に詣  祖翁の碑前にかしこまるは
 生涯の本意なり。此碑や元禄それの年義仲寺と一時に建たりとかや、
 文字の古ひさも覺へていと尊し。今扶桑に靈塚多しといへとも、此國
 は出生地といひ先祖奕代の精靈をまつれる淨刹なれは、翁の精神も
 かならすこゝにあつまり給ふなるへし。

    家内皆杖に白髪の墓参とありし吟は、此精舎にての事なりとそ

いたゝきに乙鳥も來たり塚の土
鳥醉


 大正13年(1924年)10月1日、荻原井泉水は愛染院で「芭蕉翁故郷塚」を見ている。

この塚というのは、元禄七年、芭蕉が大坂の花屋で病歿し、遺言に依って近江の義仲寺の葬斂を営んだ時、土芳卓袋の両人が会葬し、遺髪を貰って来て、此処に埋めたものである。碑面には「芭蕉桃青法師」、側に「元禄七甲戌年、十月十二日」と刻してある。(文字は土芳筆とのこと)。碑の上を蔽うて、約一坪程の堂がたてられかなめ垣を囲らしてある。すぐ後ろは鬱々たる竹藪、之を背景にして、この塚が非常に落着いた所を得ている。

『随筆芭蕉』(伊賀に来て)

内藤鳴雪筆の「故郷塚由来記」


元禄七年十月芭蕉翁浪花の客舎に逝く。遺骸は粟津の義仲寺に葬せしも、郷里の門人土芳・卓袋等翁の徳を慕ひて、遺髪を菩提所たる伊賀上野愛染院内に埋め、一基の碑石を建て芭蕉翁故郷塚と称え里。此由来を汎く世に知らしめんとて翁の碑石を建て、翁の遺徳と共に永遠に伝へんとす。因つて故郷塚保存會諸氏等の請に應じ、其顛末を誌すと云爾。

鳴雪内藤素行

 昭和9年(1934年)4月、高浜虚子芭蕉の生家から愛染院の故郷塚を訪れている。

それから愛染院といふところに芭蕉の遺髪を埋めた故郷塚といふのがあるのを見に行つた。それはこの地の門人土芳、卓袋の二人が芭蕉の訃を聞いて柩の後を追つて義仲寺に行き、その遺髪を貰つて歸つてこゝに埋めたものであるといふことである。

「奈良街道」

 昭和11年(1936年)3月24日、種田山頭火は故郷塚を訪れた。

 三月廿四日 晴。

芭蕉遺蹟を探る――

故郷塚、瓢竹庵。

上野は好印象を与へてくれた。


 昭和18年(1943年)4月29日、山口誓子は愛染院を訪れている。

   愛染院

牡丹なほ蕾かたしや復も來む

『激浪』

 昭和18年(1943年)11月23日、高浜虚子は愛染院の芭蕉忌法要に参列。

ここに来てまみえし思ひ翁の忌

笠置路(かさぎじ)に俤描く桃青忌

焚火するわれも紅葉を一ト握り

掛稲の伊賀の盆地を一目の居

      十一月二十三日 伊賀上野、友忠旅館。愛染院に於ける芭蕉
      忌。菊山九園居。


 昭和38年(1963年)10月2日、荻原井泉水は伊賀上野へ。愛染院に詣でる。

愛染院芭蕉墓

老樹は白梅と聞く墓前落葉のあたたかし
十月十二日

『大江』