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矢矧といふ所を立て、宮路山越え過ぐるほどに、赤坂と云宿有。爰に有ける女ゆへ(ゑ)に、大江定基が家を出けるもあはれ也。人の発心する道、其縁一にあらねども、あかぬ別れをお(を)しみし迷ひの心をしもしるべにて、まことの道にを(お)もむきけん、有難くおぼゆ。 別れ路に茂りも果で葛の葉のいかでかあらぬかたにかへりし |


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本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。 享保18年(1733年)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数400軒のうち、83軒が旅籠屋であった。 大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716年)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行23間ほどであった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。
豊川市教育委員会 |

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本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い。門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。 赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711年)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代の初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。 宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で、門・玄関付の立派なものであった。
豊川市教育委員会 |


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「夏の夜の月は出たと思うとすぐに入ってしまう。まるで東海道五十三次の中で、御油を出てからたった十六町で赤坂へ着いてしまうのと同じような感じである」の意。 実景をよんだものではなく、比喩的媒介をとって仕立てた句である。元来御油と赤坂とは海道でも知られたたわれ女の多かったところ、殊に赤阪は古来東海道随一の遊興の地で、西鶴の『一目玉鉾』によると元禄に入ってからは衰えたらしいが、以前は大いに繁昌した土地柄である。句の裏に遊興地の御油どまりだった旅人が、たった十六町の赤坂で留女の手に引留められてしまうことを写しているのであろう。この句は、東海道の旅の経験を土台として生かしているところがあり、そこが新味だったわけである。二十年後になって「今もほのめかすべき一句」としているのも、なかなか暗示的である。地名の与える色彩感や耳に与える効果を説く説、象徴的な匂いを指摘する説などがあるが、たしかに「御油」という地名と、御油から出る赤い月の感じを「赤阪」という地名にかけたところは注目すべき…であると思われる。 |

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享和元年(1801年)3月4日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で赤坂宿に泊まっている。 |
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国府町を過て、御油なはての松原にかゝる。左のかたの松に桜のやどり木あり。まないた橋をわたれば、御油の宿なり。問屋場に御秤頂戴所といへる札あり。御油より赤坂までは十六町にして、一宿のごとし。宿に遊女多し。おなじ宿なれど御油はいやしく、赤坂はよろし。 |

| 御油 |
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| 淋しさはどちら向ても菫かな | 菊明 |
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『俳諧五十三駅』(安袋編) |
