芭蕉ゆかりの地



『芭蕉翁正伝』

寛政10年(1798年)秋、序。泊船居竹二坊著。呉水、画。

竹二坊は福田村(現・比企郡滑川町)の人。藤堂伊賀守の侍医。

いにしへより徳のおこなはるゝや和漢一条にして泉の九里を潤すがごとし。されば、徳孤ならずして道に遊ぶ。

予此伝を梓行なし、四方の君子に知らしめんとすれど、意伝は元来神秘なれば、法をなみするの罪を軽、其内急用のあらましをあげて此小冊とはなせり。若此道をしたふの信ある人には自他を論ぜず、法を伝へ他に蔵するの直伝あるときはそれを乞ひ、是を広めば故翁え今日の寸志ならんと、武陵の泊船居筆をとりて台下の朝倉が彫刀に残すことしかり。

   ばせを葉や世にはびこりて破れけり

泊船居竹二坊

寛政十午の初秋

   蕉翁温故

そもそも芭蕉翁桃青は、伊賀の國阿拜の郡拓殖むらの人にして俗名松尾半七と云、後あらためて松尾忠右衞門宗房と呼。正保元申としの生れにして、弥平兵衛宗清か苗裔なり。よつて宗房と名乗る。父の名は儀左衞門、母は予豫州宇和嶋の産なり。桃地氏の娘なり。支考か翁の碑銘曰、吾師は伊賀の國に生れて、其先は桃地の党とかや。今の氏は松尾なりと書り。是は母の氏を聞あやまりしもの也。

弥平兵衛宗清か屋鋪の跡今に存す。庭に大なる手水鉢有、人皆これを名物とす。其類今同郷に姓をわかつ、柘植氏、松尾氏、福地氏等是なり。儀左衞門嫡子与左衞門は上野赤坂町に手跡師範を以家業とす。次弟半左衞門は藤堂主殿長基の臣たり。三男忠右衞門は寛文二寅のとし藤堂新七郎良精の臣となる。それより嫡子主計良忠に仕ひ、良忠の間には宗房と呼れて、月花を弄ひ給ふとなん。良忠俳名蝉吟と云 此人季吟の門にして宗房と兩吟の巻あり。其外反故とも数多有。一とせ大坂の役に戦死し給ふ藤堂新七郎良勝主計の祖父也 遠忌法筵に

大坂や見ぬ世の夏の五十年
   蝉吟

   又ある時

そり高き霜の刃やはしのうへ
   仝

此短冊安永改元の頃、洛の蝶夢か粟津の義仲寺え収んと請ふ。是は翁の廟堂なるゆへ、よつて其意にまかす。然に蝉吟子寛文六午とし四月不幸にして世を早う辞し給ふ。宗房深く傷悼して水無月半は遺髪のともし奉りて高野山報恩院に収む。此故に報恩院の過去帳にも松尾忠右衛門殿と記して今に残る。おなしく末に下山す。それより、ひそかに遁世の志ありてや、頻に暇を乞ふといへともゆるしなければ、其年秋七月終に私に主家を避退してす。此時翁廿三歳也。同僚孫太夫といふ者、それか宅門に包たる書状あり。とりてみれは、


雲とへたつ友かや雁の生別れ
   桃青

と書したんざく也。宗房宅地は藤堂新七郎中屋鋪城東在。良精の臣兄半左衛門、爰に住す。孫太夫は隣家也。今河合何某住る所、宗房か舊宅也。此短冊河合の家に秘蔵せしか、正保の頃、江彦根の臣四宮文五郎と云ふ者、河合の家に縁ありてひたすらの懇望寄ておくりぬ。それより洛に登り季吟に遊学す。此頃東山の麓住し、泊船堂桃青と号す。寛文十二年子ノ九月、東武杉風方へくたる。後小石川水樋功を殘すして、此頃薙髪し風羅坊と云。其後深川に庵を結ひ、門人李下一株を植て茂れるより、世人皆芭蕉庵といふ。正宝(ママ)の四年辰の六月廿日頃、始て伊賀に来り。同秋東武に帰り、貞亨四年丁卯の秋、十一年を經てふたゝひ伊賀に来り庵を結ふ。無名庵と号す。翌年春蝉吟子旧亭にて俳諧ありしよし。又探丸子蝉吟子の嫡子なり。別埜に花見の催しありて伴れ、むかしの跡もさながらにて、

さまざまのことおもひ出す櫻かな
  桃青

   春の日はやく筆にくれ行
  探丸子

斯筆跡あり。今軸となりて良精の家に伝ふ。其後大和芳を行脚して、元禄のはしめ東武に戻り、それより出羽・奥州を漂泊して、同七年古郷帰り、伊賀の庵にて土芳・半残・猿誰・雪芝・其外数輩を集めてしはしは俳諧あり。九月八日より支考惟然坊を伴ひ奈良・難波を行脚して出給ひて、九月中旬より病の床に臥、御堂前花や仁右衛門宅にて五十一齢を名残りとして苔下の客とはなられきなり。

一 伊賀にて所々俳諧ありし庵左通

   無名庵 箕虫庵 瓢竹庵

   東麓庵 西麓庵 二麓の庵号ハ猿誰か別埜なり。其文子孫に伝ふ。

無名庵ハ今再興して再形庵と号す。前文有、無名庵是なり。

   鼾の圖 木魚 水鶏笛

此三品ハ今に残りて伊賀の名物とす。木魚・水鶏の笛ハちいさきものゆへ翁常の頭陀に入れて所持せられしとなり。

   兄翁故郷塚 愛染院のほとりにあり。

半左衞門宅ハ赤坂町に在しか、宝暦のころ、三代目半左衞門類疫にて家族ことことくたへぬ。

一 翁大坂より兄半左衞門遺書有。此書、軸となりて今義仲寺納。尤是は写しにて、本書は今再形庵に残る。其文俗にして通味あり。実に尊むへき遺状なり。

一 藤堂新七郎良聖(ママ)上屋鋪の内に松あり、人皆芭蕉の松と呼ふ。昔の枩は枯れて、今の松は後植也。

一 伊賀上野町山田屋市兵衛俳名雪芝 と云者有。是ハ翁の従弟にて、おりおり爰に居られし由。庭に手植の松あり。其時翁

涼しさや直に野松の枝の形
   はせを

如斯句興有故、今人是を野松と云。当時雪芝三代目俳名呉川、今其句軸となりて呉川か家珍とす。

岩つゝし染る涙やほとゝきす
   宗房

此句、藤堂良聖(ママ)家に残る布目短冊なり。又続山井と云俳書にも出たり。

愚案るに、為弁抄、伊賀素生の条、白馬の弟子伝を引て、故翁は伊賀の城主藤堂家に仕て、稚名は金作と云、俳名は宗房と云。十九歳の時に官を退き、三十六の年武の深川に庵を結ぶ。芭蕉庵是なりと云、甚あやまりなり。

伝曰、正保元申としの生れにして、寛文寅のとし始て藤堂
新七郎良精の臣となる。爰に指折ば、此時翁十九歳也。是ハ仕ふと退との誤なるべし。されは寛文四の秋、主家を避退す。此とき翁二十三歳也。それより在京七年、季吟に遊学す。寛文子とし、深川に庵を結ぶ。此時翁廿九歳也。延宝四辰のとし六月廿日頃、始て伊賀に来り、同年秋江戸へくだる。其後十二年を經て貞享の卯とし、ふたゝひ伊賀に来り、おなしく五辰とし、大和吉野を行脚して、元禄のはしめ又江戸に帰る。此時九月、元禄と年号改る。翌二年巳の三月廿七日、深川を立て奥羽に赴く。此頃奥州武隈の松にて、

桜より松は二木を三月越し
   はせを

是は三月より皐月のはしめ迄に爰にいたる故にいたる故に其日数を籠めたる句にて夏季にあらすして、夏の証句と被申候。

古歌に 武隈のまつは二木をみやこ人いかゝと問はゝ三木とこたへん

此等の心と句作ありしよし。それより塩竈の明神を拝み奉りて、和泉の三郎寄進ある燈籠なと感し、文章を残し水無月半は羽黒山に詣ふて、

凉風やほの三か月の羽黒山
   桃青

語られぬ湯殿にぬらす袂かな
   ゝ

雲の峯いくつ崩れて月の山
   ゝ

此三詠を残し、後か岡・酒田・越に掛、所々漂泊して加賀の国・越前・みのを行脚し、伊勢の遷宮を拝み奉て洛に登り、江戸にくだる。翌年春、又旅発ありて膳所にて去来凡鳥(ママ)抔を集め、猿蓑集を出し、此頃瓢集も出る。又、石山の奥に菅沼曲水子の伯父、僧となりて居られし幻住庵をかりて爰に足をとゝめ、其後須磨・明石にも杖をむけられ、又洛に有て落柿の主人、あるは珍碩等を招き続猿蓑集を出し、後江戸くだる。道々秋葉・鳳来寺なとをめくりて三河路に遊ひ、深川に帰庵し、炭俵集又は杉風亭立別の会なと催し有りて、それより洛に登り、去来を訪ひ、大津にいたり、伊賀に帰る。此時支考惟然をともなひ、奈良・難波に頭陀を運ひ、難波におゐて病の床に臥し、元禄七戌のとし十月十二日、一朝の露とはなられきなり。然は為弁抄の説は全実をたゝささるの誤なるへし。故に爰に補ことしかり。

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