芭蕉ゆかりの地



『芭蕉翁全傳』(川口竹人)

宝暦12年(1762年)。芭蕉の伝記の中で最も古く信頼されている。

 川口竹人は辻維言。通称庄太夫。伊勢津藩の伊賀城代家老藤堂采女の家臣。服部土芳の門人。

明和元年(1764年)11月18日、72歳で没。

はせを翁は彌平兵衞宗清の裔孫にして、伊賀の國柘植の郷日置山川の一族松尾氏也。中頃の祖を百司某といふ。父は與左衞門、母は伊豫の國の産、いかの國名張に來りて其家に稼し、二男四女を生す。嫡子半左衞門命清、其次則翁也。(家系後に詳記す)。正保元甲申の年、此國上野の城東赤坂の街に生る。幼弱の頃より藤堂主計良忠蝉吟子につかへ、愛寵頗他に異なり。童名金作後に藤七郎又忠右衛門宗房といふ。主従ともに滑稽の道に志篤く、貞徳老人の流れを汲み、恪の季吟貞室、攝の宗因等にしたしみ遊ふ事歳あり。



翁の句は

      あち東風やめんめんさはき柳髪

      しはし間もまつやほとゝき數十年

      寢たる萩や容顔無禮花の貌

      時雨をやもとかしかりて松の雪

右おのおの四季を記す。其後の俳諧の變化を知らしめんため也。

かくて蝉吟子の早世の後、寛文十二子の春(二十九歳)仕官を辭して甚七とあらため東武に赴く時、友たちの許へ留別、

      雲と隔つ友にや雁のいきわかれ

其頃はみつから釣月軒とも稱しけり。うふすな上野菅原社に奉納、貝おほひと名つけ一書三十句の中に、

      きてもみよ甚へか羽織花ころも

      めをと鹿や毛も毛か揃ふて毛むつかし

かゝる俗風のたはふれことも聞えしか。

誹若土糞と云ふ。薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。一柳軒か編る書の中には、

      一時雨礫や降つて小いし川

延寳四辰のとし故郷に歸るとて途中

      山のすかた蠶茶臼の覆ひかな



天和三亥の冬、深川の庵焼失、其あくる年庵を造りあらためて、一もとの芭蕉をうゑ雨中の吟、

      芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉

これよりはせを菴とは呼ふ事になりぬ。芭蕉を愛するに、尚口傳あり。

一派の風聲東部に鳴る事九年にして、貞享元年子の秋江戸を旅立して、

      野さらしを心に風のしむ身哉

      秋十とせ却て江戸をさす故郷

舎并州已十霜と賈島か吟行おもひおはすへし。箱根を越えて、

      霧しくれ富士を見ぬ日そおもしろき



ある人のもとに屏風の畫を見て

      旅烏古巣は梅に成にけり

些中庵土芳其頃は蘆馬と稱す。此春播磨にありて、歸る頃、翁ははや此國に出られけれは、跡を慕ひて京に上る。水口の驛に往あひて、同し旅ねの夜すから語りあかすとて、

      命ふたつ中に活たる櫻かな

翌日朝中村柳軒といふ醫のもとに招かれ、此句にて二十年來の舊友二人におなし句を以て挨拶したりと一興。其里の蓮華寺、伊賀の大仙寺嶽淵各四五日對話、歌仙なとあり。其夏より寅卯二とせ武江に在て、又其師走伊賀の國に在。

      ふる里や臍の緒に泣年の暮

元録元辰のとし、此春武藏野の僧宗波、美濃杜國伊賀に來り、杜國は萬菊と改名して、和州行脚に伴ふ。又伊勢に詣て子良の梅の句あり。瓢竹庵に萬菊と旅ねして、此國出井の庄兼好の古跡を尋ね、よし野、須磨明石、京に出て、五月廿日美濃鵜飼あり(京より猿雖か方へ文通の時萬菊か鼾の圖たはふれに出來る。今其家にあり。猶其時の書翰奥に記す。)直に武江に歸庵也。萬菊は京よりひとり伊賀に歸り、猿雖かやとに四五日足休して、六月廿五日美濃に歸る。其春風麥(小川氏)亭に會して、

      春たちてまだ九日の野山哉

菅社のほとり藥師寺の會に、

      初さくら折しも今日はよい日なり

藤探丸子(蝉吟子嗣子良長)のもとにて、

      さまさまの事おもひ出すさくら哉

          春の日はやく筆に暮ゆく   探丸子

阿波の郷大佛寺にて、

      陽炎の俤つゝれいしのうへ

此句後丈六に陽炎高しと改る。

ひの木笠に書付の句、花を櫻と改て、支考か笈日記に載す。くたくたしけれは洩す。其冬武城に歸り、又巳の三月末より松嶋に旅立。直に九月上旬伊勢の遷宮萬菊路通卓袋にあひ、久居二三日のやとり後、李下を伴れて伊賀に歸り、霜月迄逗留(李下は一宿路通は暫くあり)。

同しく三年正月はしめより二月迄伊賀に在。参宮(なにの木の句>あり)卯月より膳所。此夏幻住庵(椎の木の句)。冬又伊賀にて百歳子のもとに、(西島氏)歌仙一卷

      鶯の笠おとしたる椿かな



風麥亭にて

      木のもとは汁も膾もさくら哉

膳所に行とて道より物に書付て半殘か許に來る二句

      一里は皆花守の子孫かな(かや可也)

      蛇喰ふときけ恐し雉の聲

右花守の句は伊賀の國予野といふ所に奈良のみやこの八重櫻の故事あり。古今著聞集沙石等に詳也。よつて此句あり。



同しく四未のとし正月始大津より伊賀に來り、薪の比南良(ママ)に行、伊賀に歸り、三月末また大津に在、冬まて爰かしこ歴覧。霜月はしめ粟津より東武に歸菴。(桃隣同行)。神も旅寝の吟此時なり。今年橋木子の會に、

      山里は萬歳遅し梅のはな



三月廿三日万乎が別墅に一折、

      年々やさくらをこやす花の塵

未の冬より申酉戌の夏まで武江に在り。其頃深川の庵再興の記文、

古き芭蕉庵は山氏素翁序製て、貧主か心さしをあらはし、其角一晶等勸進の聖と成りて、風士の輩に一紙半銭を乞ふ。今年辛美の夏、杉風一人の施主と成りて聊か枳風か志を相兼、住居は曽良岱水が物好に任せて、三間の茅屋池に臨て立り。



元禄七戌のとし初の五月十九日尾張の方よりいかのくにゝ歸り、閏五月雪芝宅歌仙一卷、

      涼しさやすくに野松の枝の形



六月末膳所に行て、魂まつる比、又立もとりて、

      家は皆杖に白髪の墓参り

文月の頃、猿雖宅に土芳と二人稲妻の題にて、

      いなつまや闇の方行五位の聲



新庵の月見、

      名月に麓の霧や田のくもり

      名月に(の)花かと見えて木綿畠

      こよひ誰吉野の月も十六里

此三句庵を見するとて門人たれかれ多く招かれし時と也。此菴赤坂にありて、無名庵といふ。(近頃庵を舊地の東白舌墅に移され、再形庵といふ。)三日月の記、口傳。其とし秋洛の惟然伊勢より支考斗從熱田より白鴻來る。(支考斗從は九月三日なり)。其ころ、

      蕎麥はまた花てもてなす山路かな

      松たけやしらぬ木の葉のへはり付

まつ茸の句に歌仙あり、

同し秋新庵にて續猿簔草稿吟味のころ、句の仕かた人の請なとの事土芳云ひ出て、

      貌に似ぬ發句も出よはつさくら

其とし伊賀にて名殘の畫賛は、

      白露もこほさぬ萩のうねりかな

九月八日旅立、九日、

      菊の香や奈良には古き佛達

其夜大阪着、

      きくに出て奈良と難波は宵月夜

十三日雨降、心地常ならされとも、すみよしに詣て、升買て分別かはるの句あり。畦止亭に遊ひ、或は其柳車庸なといふもの、宅に會あり。廿六日新清水彼方此方徘徊して、

      此秋は何てとしよる雲に鳥

その比の事とも枯尾華笈日記等に委しけれは、これを略す。十月に入つて泄寫の病しきりに發り、終に十月十二日申の刻終焉。病中の吟世に知所なから、

      旅にね(病)て夢は枯野をかけまはる

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