加藤楸邨


『芭蕉全句 上』

 昭和44年(1969年)3月10日、刊。

貞享年代

貞享年代(芭蕉41歳より45歳まで)

   蝶よ蝶よ唐土の俳諧問む

 「蝶よ、蝶よ、荘周は夢でお前に化したということだから、さあひとつお前に唐土の俳諧とはどんなものかたずねてみたいものだ」というのである。

 談林の発想は非常に多く『荘子』の寓言を踏まえているが、これはそういう談林の脈をひいている句で、『荘子』の寓言に俳諧の源流を見る立場から発想しているのである。すでに『山之井』にも蝴蝶の条に「荘周が夢をよせて、こてふの夢の百年めなどもいへり」と説き、例句に「ぬる蝶の夢想やひらく花下―休甫」などを挙げており、流行の発想法によったものであることがわかる。

 真蹟画賛は荘子の画賛で「芭蕉之」と署名。『俳諧遺墨』・『真蹟集覧』にも「拝荘周尊像」と前書して収める。『蕉翁句集』『芭蕉句選拾遺』(上五「もろこしの」と表記)には「唐土の俳諧とはんとぶ小蝶」とあり、荘子の画賛なるよしを付記、貞享元年の作とする。改案か。



   奈良七重七堂伽藍八重桜

 「奈良は七代七十余年の帝都で、七堂伽藍が重畳と立ち並んだ古いお寺も多い。そこには昔から和歌によまれた八重桜が今も咲き誇って、まことに立派な古都である」の意。

 上五が柔らかく、中七が強く豪壮に、下五が優しく、また母音aが九回も繰り返されて全体が音楽的な諧調備えている。「七」と「八」とを対応させ、全体が名詞だけで成り立っている表現も特異な技巧である。『詞花集』の「いにしへの奈良のみやこの八重桜けふここのへににほひぬるかな」(伊勢大輔)を心に置いた発想であるが、年代の古い『続山井』(寛文七年刊・湖春編)に「名所(などころ)や奈良は七堂八重桜―如貞」、『大井川集』延宝二年成・維舟編)に「奈良の京や七堂伽藍八重桜―元好」などがあり、芭蕉作と認めるにしても芭蕉独自の句境とはいえないものがある。



   世にさかる花にも念仏申しけり

 「何を見ても念仏を唱える人がいて、世間の人が笑いたのしむ今をさかりの花を見ても、南無阿弥陀仏と念仏を唱えたことよ」というのである。

 自分の行為を詠んだともとれるが、そうとらない方がおもしろかろう。ただし諧謔だけではなくて、念仏三昧の人の一図なさまを詠もうとしたものである。「花にも」というところにややはからいが入りこんでいて弱い感じである。

 『蕉翁句集』『芭蕉句選拾遺』に貞亨元年の句として所収。



   松風の落葉か水の音涼し

 「松風にはらはらとこぼれる松落葉の音か――ふとそう聞きまごうばかりに水の音が涼しくひびいてくることだ」というので、水の音の涼しさによって松の落葉を観じているのである。

 「か」は疑うこころであるが、耳を傾けて松落葉の音と聞きなされる水音の涼しさを感じとっている趣である。「か」の「涼し」にひびいてゆくはたらきが大切である。

 『蕉翁句集』に貞享元年とする。『芭蕉句選拾遺』にも収める。



   雲霧の暫時百景を尽くしけり

 「天を支えんばかり聳え立つ富士の霊峰に雲や霧が湧きのぼって、見る見るうちに千変万化して、あらゆる美景を眼前にさせてくれる」というので、富士の峰の変化する美景を讃えたものである。発想の契機は前文によって明らかであるが、やや前文にもたれすぎていて、句の独立性に乏しい。「百景を尽くしけり」という表現も、いまだ生硬の難をまぬがれない。

 『暁台句集』中にも見え、天和三年の甲斐流寓中の作とするが、発想・季等から貞享元年『野ざらし紀行』の折の作と推定。桃鏡『芭蕉翁文集』にも右の句文を収める。



   苔埋む蔦のうつつの念仏かな

 「この非業な死を遂げた朝長の跡を弔うと、目の前には苔に埋もれ、蔦がおおった墓があるのみである。その前に佇ちつくしていると、死に当って唱えたという念仏の声が聞えてくるような感じがする」という意。

 謡曲「朝長」に「夜更け人静まつて後朝長の御声にて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ……」とある最後の自害の様が心にあって、朝長をあわれむ心が発想の契機になっているのであろう。語の選択については、『伊勢物語』の「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦楓は茂り、物心ぼそく、……駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」に負うていると考えられる。

 『花の市』(正徳二年刊・寸木編)にある。



   宮人よ我が名を散らせ落葉川

 「多度権現の宮人よ、いま木因の書きつけた落書にあらわれている私の名などは、この落葉とともに川に掃き散らしてほしいものだ」の意。

 木因の落書に対してそれを「いとふ」気持で発想されたものであるが、対抗的につよく言ったものではなく、即興的に軽くいなしたといった体のものであろう。木因のはずんだその気持にそのままは乗りかねて、ややはにかんだ気持がこの句になったもので、即興性を味わうべきなのである。『笈日記』に「又いかなる時にか侍りけむ、たどの権現を過るとて」と支考の前書を付して収める。『泊船集』(「たゞの権現にて」と前書)・『蕉翁句集』(「たどの権現を過ぐるとて」と前書)にも収める。谷木因の『桜花文集』には「伊勢の国多度山権現のいます清き拝殿の落書、武州深川の隠泊船堂芭蕉翁、濃州大垣勧水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召れ候へ」として。「伊勢人の発句すくはん落葉川   ―木因」を出し、つづけて「右の落書をいとふの心 こころ」と前書して、宮守よわが名をちらせ木葉川―桃青」となっている。同行者木因の記述なので、成立事情ならびに初案の形を示すものとみられる。『野ざらし紀行』の旅の途次、大垣から熱田に至る間のことで、貞享元年の作。『蕉翁句集』には貞享四年と誤る。



   いかめしき音や霰の檜木笠

 「檜木笠に霰がぱらぱらと音をたてて降りかかる。耳を澄ますといかめしく胸にこたえてくる音である」という意。

 この音は自然のきびしさであると同時に、住する境涯のきびしさでもある。旅中の感とみても、旅姿の自画賛としても、それぞれにおもしろい。

 『古松』(貞享四年刊・尚白編)に初出。『陸奥鵆』『泊船集』・『宇陀法師』・『心ひとつ』・『蕉翁句集』(「自画像賛)と前書」にも所収。旅姿の真蹟自画賛および真蹟短冊も残り、『芭蕉翁真蹟集』にも所出。年代は出典よりみて、貞享三年以前。『蕉翁句集』が元禄二年とするのは誤り。『枯尾花』に「貞享初のとしの秋……いかめしき音やあられと風狂して」と引用するのに従い、しばらく貞享元年に置く。



   此の海に草鞋捨てん笠しぐれ

 「今日まで草鞋を足に、時雨に濡れつつわびしい旅をつづけて来たが、ここの海に草鞋も捨て、時雨を凌いだ笠も捨てて、しばらくこの家に旅の身を休めることにしよう」の意。

 桐葉の厚意に対する挨拶をこめた句であるが、「しぐれ」という季語がかなり本質的なものとして句に生かされてきている。「捨てん」を上下にかけて興じているが、ことさらめいたものでないだけに素直に趣を感じとることができよう。あるいは「草鞋を捨てん」の方が推敲後の形かとも思われるが、一気に言いおろす「草鞋捨てん」と興じた句勢も捨てがたいものがある、

 『皺筥物語』・『熱田三歌仙』(『皺筥物語』と同文の前書)・『幽蘭集』に連句として所収、脇は「剥くも侘びしき波のから蠣―桐葉」。『蕉翁句集』『芭蕉句選拾遺』には「熱田にて」前書して、中七が「草鞋を捨てん」とある。『笈日記』には「芭蕉翁、十年余りも過ぎぬらん、いまそかりし比、はじめて此の蓬莱宮におはして、此海に草鞋を捨てん笠時雨、と心をとどめ、景清が屋敷も近き桐葉子がもとに頭陀をおろし給ふより……」と掲出。貞亨元年旅中の作。

 「桐葉」は林七左衛門。熱田の門人。芭蕉を厚遇したので、芭蕉はここに滞在しようとしたのである。「この海に」は桐葉亭が海に近かったのでこういったもの。「草鞋捨てん」は旅の身をしばしここに留めようの意。「<笠しぐれ」笠に降りかかる時雨。上の「捨てん」はこの「笠」にもかかっている。



   旅烏古巣は梅に成りにけり

 「旅烏が古巣に戻るように、ながい漂泊の身をもって故郷の伊賀にもどっていると、折から梅の花の時期となり、なつかしい梅の香にかこまれたことだ」の意。

 故郷に身を置くよろこびがほのぼのと出ている。画賛の句らしいが、挨拶の心がこめられているようである。「旅烏」という比喩は臭みを持ちそうな表現だが、それが」ないのは素直な発想のためであろう。

 『鳥の道』(元禄十年序・玄梅撰)に、「此の句は翁いつの比の行脚にか、伊賀の國にて年の始にいへる句なり」と注記して所出。『泊船集』・『四山集』にも所収。『蕉翁句集』に「伊賀にてある方に」、soukou.html">『蕉翁句集草稿』に「此の句にて伊賀俳影方にて歌仙有り」、『芭蕉翁全伝』に「ある人のもとに屏風の画を見て」。として出ていて句形に異同ははない。年代は『蕉翁句集』や『芭蕉翁全伝』がいうように、貞享二年正月作。



   躑躅いけて其の蔭に干鱈割く女

 「躑躅が活けてあって、その蔭のところで何かしているものがある。よく見ると一人のに女がいて、無造作に干鱈を割いているのだった。

 「躑躅いけて」というのであるから、庭などに生えているようなものではなく、山躑躅の類であろう。その蔭に女が干鱈を割いているという感じは、相当大枝で花も大形のものであろう。干鱈を割くような茶店だから、かなり飲食には不自由な、客を見てそれから用意するようなところが創造される。「鱈割く女」、と投げだしたように言っているところに、一句の焦点が「女」の上に生かされて重みがでてきている。野の躑躅をそのまま活けたその蔭に干鱈割く女を点出し、あとは読みとる者の自由に任せる態度をとっているのである。句調も六五八となっており、いわゆる破調の句である。すでに天和二年の『虚栗』に「姿旦夕(たそがれ)て卯花に文ヲよむ女―言水」よような句もあることは指摘されているとおりで、流行の口調を自分の世界に生かしたものなのであろう。



   菜畑に花見顔なる雀かな

 「咲き揃った菜畑の間をたのしげに飛びまわっている雀の様子は、いかにも花見でもしているといった顔付だ」の意。

 菜畑の雀の様子に人間に通じたものを感じとって、「花見顔」といったのである。まことに温かみのこもった作で、雀に対して静かに愛情の傾いていった感じがある。

 素直に感じつつ、愛情ふかい目付が出ていると思う。小動物を生かした可憐な小品の味は心ひかれるものがある。



   杜若われに発句のおもひあり

 「庭前に杜若が咲いているが、しずかに見ていると、これによって発句を読もうかという気持が湧き出て来たことだ」の意。

 鳴海の下郷寂照(知足斎)の亭で、桐葉・叩端などの連衆が催した会での発句。挨拶の意がある。庭前の杜若を賞し、これから俳席が設けられ、迎えられた客である自分が発句をまず詠むことになるであろうが、その時はこの杜若で詠もうかという心の動きを含んでいるのである。

 『千鳥掛』(正徳二年・知足稿)に連句二十四句として掲出、脇は「麦穂波寄るうるほひの末―知足」。『芭蕉翁発句集』に、「足亭庭前にて」と前書して所収。『知足斎日々記』の貞亨二年四月四日の条に「江戸芭蕉翁桃青(注、熱田)、助左(注、叩端)、七左(注、桐葉)、被参候而はいかい一会仕ル」とあるときの作。『八橋集』(享保二年刊・吐虹編)にも所収、ただし、「題八橋」の前書は疑問がある。



   月花の是やまことの主たち

 「この風雅の道においては、この宗鑑守武貞徳の三聖人こそ、まことに、月を眺め花を賞する上での主たちともいうべきであろう」との意。

 芭蕉が俳諧道において、守武・宗鑑・貞徳などにいかなる態度をとっていたかを見る上の一参考になろう。『皺筥物語』の伝えるところによると、熱田の門下東藤子の需めに応じて書き与えた句だという。即興の作だったわけである。「月花の」で小休止を置き「これや」と転じたところに、即興句としてのはずみが生かされている。



   思ひ出す木曽や四月の桜狩

 「もうこの温かい尾張の国では桜も過ぎてしまったが、あの木曾は山國だから、四月が花のさかりのはずで、いつか四月の桜を見たことがなつかしく思い出される。」という意。

 発想の仕方は、尾張あたりの桜が散りすぎてしまって、何やら淡い寂しさが湧き、その淡い寂しさの中に、桜がまだ咲いているであろうと思われる木曾が思い出されて来たものであると思う。『幽蘭集』の「おもひ立つ」は、その心を一歩進め木曾の旅を志す表現となっている。

 芭蕉庵類焼により、天和二年(一八六二)末から翌三年五月に至る間、芭蕉は甲州の高山麋塒の許に難を避け、「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな」という吟もあったが、そのころ木曾に遊び、「四月の桜狩」をしたこともあったものと思われる。「思ひ出す」は、その時のことを心に置いて、木曾への旅心がきざしていることをいったものである。

 『皺筥物語』(「翁これより木曽に趣き、深川に帰り給ふとて」と前書)・『熱田三歌仙』(「木曽を経て武の深川へくだるとて」と前書)に脇句を伴って所出、脇句は「京の杖つく岨の青麦―東藤」。『幽蘭集』には上五「おもひ立つ」とあり、連句は十二句目までを掲出、脇句の下七は「岨の夏麦」とある。発句を夏とすれば、この脇句の方がよい。あるいは発句も『幽蘭集』の方が成稿のかたちを伝えるか。貞亨二年旅中の作。



   山賤のおとがひ閉づる葎かな

 「人モ行かぬ、雑草の丈なす山中で逢った山賤は、むずと口をとざして開こうともしないことよ」の意。

 「甲斐山中」という前書にふさわしく、人に逢うこともない山中でようやくにして逢った山賤も。起ったような無愛想な表情をして口を開きそうな気配も見えぬという、力強い句である。山中人懐しさの念がきざしている折も折、はからずも逢った山賤の風貌の、いかにも山人らしい厳しさに驚き見つめている感じの句である。>

 『続虚栗』(貞亨四年刊・其角編)に所収。『蕉翁句集』(「甲斐山中」と前書)にも収め、元禄二年作とするが、『野ざらし紀行』の旅の帰途の作であろう。暁台の「峡中之記」(天明三年)に「天和の変」(天和三年)の際の作と考えているらしい記事があり、「山中」を地名として「山中にて」と前書、中七「頤とぢる」とするが、『続虚栗』に従うべきであろう。なお、右の記述は、『暁台句集』の暁台の句の前書中にも出る。



   よく見れば薺花咲く垣根かな

 「薺の花というものはほとんど人の目に触れることもない目だたぬ小さな花であるが、よく見ると、その薺が思いもかけず垣根のもとに小さな花をつけていたことよ」と驚いているのである。

 この驚きんは深い愛情が感じられる。「よく見れば」という語はつつましい語であるが、この句では動かぬ重みを蔵すると言っても過言ではなかろう。この語が、「薺花咲く」にひびいて、そのあるとも見えぬ花の咲いていることに驚いている感じが生きてくるのである。『芭蕉句選年考』には『白氏文集』の「惆悵去年墻下地 今春唯有花開」を引用する。



   観音の甍見やりつ花の雲

 「病後の懶(ものう)い目を、家々の屋根のかなたの観音堂の甍にやっていると、そのあたりは一面もう花も盛りで、花の雲がひしめいていることだ」の意。

 深川の草庵での吟だが、当時は、人家もまばらで、あさくさかんのんの大甍が遠く望見できたのであろう。「見やりつ」という語調に、病起の懶(ものう)い規則が感じられる。見ようとして見ているのではない。おのずから見ていた、気がつくと見ていたという気持なのである。

 『末若葉』(元禄十年刊・其角編)・『泊船集』『三冊子』・『赤冊子草稿』などに出で、謡曲「西行桜」の一節に譜点を付して前書にした真蹟懐紙も残っている。『蕉翁句集』『芭蕉翁發句集』(「諸集に『花の雲』とあり」と頭注)・『其角十七条』には下五「花曇り」とある。『末若葉』に「『かねは上野か浅草か』と聞えし前の年の春吟なり。尤(もつとも)病起の眺望成べし。一聯二句の格なり……」とある。『末若葉』で引いている「花の雲鐘は上野か浅草か」の句が貞亨四年と推定されるので、この句は三年春の作とみてよいであろう。『蕉翁句集』も貞亨三年とする。



   花咲いて七日鶴見る麓かな

 「花七日といわれる花盛りの七日の間、やはり一所に七日留まるという鶴をながめることができて、この麓の眺めはまことにたのしいことだ」の意。

 清風に対しての挨拶のこころが籠められているものと見なければならない。「鶴」に清風をたとえたとも見られるが、それより清風の仮寓を訪ね、その静閑を賞したものとみた方がおもしろい。清風(尾花沢出身)の脇には田舎出のおのれを卑下した感がうかがわれる。

 『一橋』(貞亨三年・清風編)・『蕉翁句集』・『同草稿』・『宝の槌』にある。「貞享丁卯詠草」をはじめ真蹟五種があり、真蹟を模刻した『花声集』等にも見える。上五の後半、諸本「咲て」と表記するが、。「貞享丁卯詠草」は「さゐて」と判読される。『一橋』は歌仙の発句として掲出、脇は「懼(お)ぢて蛙のわたる細橋―清風」。『水の友』には上五「華ざかり」、『芭蕉句選』には上五・中七」「鶴下りて七日花見る」とあるが、誤りであろう。『一橋』・「貞享丁卯詠草」にあるので、貞亨三年三月二十日の作。



   起きよ起きよ我が友にせん寝(ぬ)(ぬ)る胡蝶

 「花に眠っている胡蝶よ、さあ起き出でよ。この春光の中におまえをわが友としよう、」そしてともに閑雅自適の生活を楽しもう」の意。

 例の、荘周夢に胡蝶となるという『荘子』斉物論の寓言を踏まえた発想であるが、この場合は逆に、眠っている蝶を呼び醒ます発想になっている。蝶に眠りから「起きよ起きよ」と呼びかけるのは、興に過ぎた風狂が感じられるようである。この他にも芭蕉には、荘子の胡蝶をを踏まえた句がかなりある。

 『己が光』(元禄五年序(車庸編)・『泊船集』・『蝶姿』・『蕉翁句集』等に所収。真蹟「貞享丁卯詠草」にも見える。また「独酌」と前書し、下五「酔胡蝶」の形をとどめた真蹟もある。初案か。「貞享丁卯詠草」にあるので、貞亨四年以前の作。『蕉翁句集』は三年とする。



   東西あはれさひとつ秋の風

 「京の去来たちと江戸の自分とは、住むところは遠く東西に隔たっているが、古人も秋風に思いを一つにしているように、私どもの味わう秋風のあわれさは同じことである」という意。

 裏に同じ風雅の世界に住む親しさを含めているのである。「あはれさひとつ」にその感得しえたところを同じくする者同士の親しみがにじゅみ出ている。

 去来の『旅寝論』に「伊勢紀行一巻つづりて深川におくる。先師ただ一巻を賞して文章に発句を結び、句の善悪は沙汰なし」とある、その発句である。真蹟懐紙はその『伊勢紀行』の跋を記したもので、「芭蕉庵桃青秋風之吟」と丈草の箱書がある。跋を収録したものに蝶夢『芭蕉翁文集』・『あか冠』があり、句形に異同はないが、板本の『伊勢紀行』(嘉永三年刊・南々編。丈草『寝転草』と合綴)には、上五「東西の」とある。『笈日記』『泊船集』・『赤冊子草稿』・『蕉翁句集』には「西東あはれさおなじ秋の風」の形で句のみ収め、前二者に『伊勢紀行』の句なるよし注記する。『蕉翁句集』には「西東あはれも同じ」とある。『伊勢紀行』は去来と千子兄妹が、貞亨三年八月伊勢に詣でたおりのもの。貞亨三年の作。



   明け行くや二十七夜も三日の月

 「夜はようやく明けはなれようとして、曙の雲もひかりがさし始めた。折しも二十七夜の有明の月が空に懸っているのにふと気づいたが、まるで三日月と同じような感じだ」の意。

 「二十七夜」という月齢のかさなった月の形が「三日月」という稚なさに似ているところに興を発しているのである。発見のおもしろさがあるが、ただその発見も、「明け行くや」とひびきあって初めて生きてくるのだと思う。

 貞亨四年三月刊の『孤松』に所収するので、貞亨三年以前の作。貞亨四年筆の・真蹟「貞享丁卯詠草」および真蹟自画賛・真蹟短冊にもあり、自筆によるとして『蕉翁句集草稿』にも見える。「貞享丁卯詠草」には、「いささかなる処に旅立ちて、船のうちに一夜を明かして、暁の空、篷(とま)より頭(かしら)指し出だして」、真蹟自画賛には「あるところに旅立ちて、船の中に一夜を明かし、下弦の月のあはれなる暁、篷より頭出だして」と前書がある。『芭蕉庵小文庫』(「常陸へまかりける時船中にて」と前書)・『泊船集』(「常陸へまかりける船中にて」と前書)には、上五が「あけぼのや」とあり、あるいは再案かとも考えられる。なお、これらの前書により『鹿島紀行』の帰途とする見方もされたが、句の成立は少なくともそれより一年前にさかのぼる。したがって、「いささかなる」旅は、貞亨三年利根川の対岸あたりへふとでかけた旅ということになろう。



   君火を焚けよき物見せん雪まるげ

 「雪の夜訪ねてきてくれた君へのもてなしによいものを見せてあげよう。君は炉にどんどん火を焚たいてくれ。ひとつ私は庭先の雪で雪丸げをこしらえて見せよう」の意。

 雪の中を訪われて喜びにはずんだ気持が、まさに語りかけるような口調となって流れ出ている。「君火を焚け」という字余りはこの口調を生かすはたらきをしているもので、『笈日記』の形はこの流動感をまったく殺してしまうようである。

 『花鱠』(天保五年・若人撰)に真蹟を模刻して掲出。句文『雪の薄』・『続深川集』にも所収。『雪丸げ』(元文二年成・天明三年曾良編)は、右の句文にちなむ書であるが、下五「雪まろげ」とある。句は『続虚栗』(貞亨四年十一月刊・其角編)に初出、「対友人」と前書して、下五「雪まるげ」とあり、『泊船集』(「対友人」と前書)には「雪丸ケ」と表記する。『若水』・『乞食曩』にも所出。『笈日記』(草庵をとぶらへる人に対して)と前書)・『蕉翁句集』には「君火たけ能物見せん雪丸」とある。年代は出典より見て、貞享四年以前、ただし四年は『笈の小文』の旅中なので、三年ごろの作。『蕉翁句集』にも三年とする。



   花に遊ふ虻な食ひそ友雀

 「一切の物は、その天より受けた本性に安じて、守るべきを守って生きているのである。無心に花に遊んでいるこの虻も、やはりそういう自得の姿である。雀でもよ、その虻も友であるから、食うようなことをするなよ」の意。

 眼前の小世界に自得する小動物」を静かな目で見守っている目が感ぜられる。この頃の芭蕉が、生きているものの根底により大いなるものの意志を感じていることの、よくわかる作だ。

 『蕉翁句集』(「物皆自得」と前書)・同草稿にも所収。『笈日記』『泊船集』に上五を「花を吸ふ」とするが、『蕉翁句集草稿』にこの句形を誤りとし、『泊船集』許六書入れm「自筆雀づくしに出でたり」として「花に遊ふ」と訂正する。『蕉翁句集草稿』はなお、「直に聞く、はじめは、『虻なつかみそ』なり。後、直るか」として初案を伝える。『笈日記』は、桑名での多とするが、『元禄風韻』に「花園 貞享四 江戸」と前書して、この句を発句とする歌仙を掲出する。脇は「猫や和(やは)らかに揺るる緒柳―岩松」。『元禄風韻』の前書、『続の原』の刊年(貞亨五年三月序)から考えて、貞亨四年作。『蕉翁句集』も四年とする。



   永き日も囀り足らぬ雲雀かな

 「春日の遅々たる空に雲雀の声が終日きこえている。この日永の一日をいくら囀っても囀り足りないように鳴いていることだ」という意。

 雲雀の囀り続ける性格を生かして、いかにも永日の感がとらえられている句である。

 『続虚栗』に「草庵を訪ひける比」と前書して「原中や」を並べて出し、続けて「と聞えける次で申し侍る」として孤屋・野馬・其角の三吟歌仙を掲出。『西の詞』・『蕉翁句集』にも所収。真蹟「貞享丁卯詠草」および真蹟懐紙にも見える。『笈日記』(「雲雀ふたつ」と前書)・『陸奥鵆』『泊船集』には上五「永き日を」とあり。『尾花の系譜』には杏花宛の真蹟短冊だとして、「永き日も日和に足らぬ雲雀かな」という形になっているが誤りであろう。年代は、『続虚栗』・「貞享丁卯詠草」に出るので貞亨四年以前、『蕉翁句集』にあるように貞亨四年春であろう。

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