俳 書
『蕉翁句集』(土芳編)
宝永6年(1709年)、服部土芳編。
土芳は服部半座衛門保英。伊賀藩藤堂家の武士。
『野ざらし紀行』の旅の折、水口で芭蕉と再会を果たし、入門。
貞享三丑(ママ)ノとし
古池や蛙飛こむ水の音
観音のいらか見やりつ花雲り
花咲て七日見る梺かな
白髪ぬく枕の下やきりきりす
酒呑はいとゝ寐られぬ夜の雪
對友人
君火たけ能物見せん雪丸け
あすハ檜の木とかや谷の老木のといへる事有きのふは夢と過てあすハいまた来らず只生前一樽のたのしみの外二あすハあすハと云くらして終に賢者のそしりをうけぬ
淋しさや花のあたりのあすならふ
草 菴
花の雲鐘は上野か淺草か
鶴の巣も見らるゝ花の葉越哉
時鳥鳴鳴飛そ閙ハし
其角母五七日追善
卯の花も母なき宿そ冷しき
岱 水 亭
雨折々思ふ事なき早苗哉
さゝれ蟹足はいのほる清水哉
みの虫の音を聞にこよ草の庵
名月や池をめくりて終宵
江戸ヲ出ルとて
旅人と我名よハれむ初しぐれ
旅 宿
こを燒て手拭あぶる寒さ哉
越人とよし田の驛にて
寒けれと二人リ旅ねそ頼母しき
一をねハしくるゝ雲か富士の雪
鳴海の沢に伯(ママ)りて飛鳥井雅章の君都を隔とよみて給ハらせけるを見て
探丸子のきミ別墅の花見もよほさせ玉ひけるにまかりてふるき事抔(なと)思ひ出侍る
瓢竹庵にひさを入て旅の思ひいと安かりけれハ
大和國行脚してかつらき山の麓を過るに四方の花さかりにて峰々は霞わたりたる明ほのゝけしきいと艶なるに彼神のみかたちあしゝと人の口さかなく世に云傳へ侍れは
又花の下に山伏を畫て讃に此句あり其端に是ハかつらき山の山伏のねことをつたゑたる成へしともあり
元禄元辰卯月山崎宗鑑やしき近衛とのゝ宗かんがすかたを見れは餓鬼つはたと遊しけるを思ひ出て
有難きすかた拝むンかきつはだ(ママ)
千子か身まかりけるを聞てミのゝ國より去來方え申遣し侍る
なき人の小袖もいまや土用干
稲葉山
撞鐘もひゝくやうなり蝉の声
何かしのまねきに應していなは山の枩の下涼ミして長途の愁をなくさむほと
此春秋旅也句奥の細道に有り洩たると見たるもの爰に記ス
花の上野(ママ)よみ玉ひけん古き櫻もいまた蚶滿寺の後に殘て陰波を浸る夕晴いと涼しかりけれハ
戸を開ケはにしに山有り伊吹といふ花ニもよらす雪にもよらす只是孤山の徳有り
伊勢之國又玄か宅にとゝめられ侍る比其妻男の心にひとしく物事まめやかに見えけれハ旅の心をやすくし侍りぬかの日向守の妻髪を切て席をまうけられし心も今更申出て
都ちかき所にとしを取て
薦をきて唯(ママ)人います花ノ春
二月十七日神路山を出て西行の涙をしたひ増賀の信をかなしむ
いかの國花垣之庄はそのかミ奈良の八重櫻の料に附せられけるとかや傳へ侍れは
此句ニ無常迅速ト前書有る自筆も有り
元禄三年秋木曽塚の旧草にありて敲戸の人々に對す
洛の桑門雲竹自の像にやあらむあなたの方に顔ふりむけたる法しを畫て是に讃せよと申されければ君ハ六十年余り予ハ既に五十年に近しともに夢中ニして夢のかたちを顕ス是にくハふるに又寐言ヲ以ス
また埋火の消やらず臘月末京都を退出乙州か新宅に春をまちて
又大津にてとしの暮けるに人の新宅にやとりて春をまち侍るとてとも自筆の前書有り奥に元禄三冬末ト有り
本間氏主馬か亭にまねかれしに大夫か家名を称して吟二句
有智識のたまわくなま禅大疵之もといとかやいと有難ク覺えて
柴の庵と聞はいやしき名なりとも世にこのもしきものにそ有ける此哥ハ東山に住ける僧を尋て西行のよませ玉ふよし山家集にのせられたりいか成住居にやと先其坊なつかしけれは
當寺此平田に地をうつされてより已ニ百年ニ及ふとかや御堂奉加の辞に曰く竹樹蜜(ママ)に土老たりと誠に木立物ふりて殊勝に覺へ侍れは