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和二角蓼蛍句一 あさがおに我は食(めし)くふお(を)とこ哉
『虚栗』(其角編) |
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一説に貞享二、其角が大酒をいましめたもふ句といへり。
『芭蕉翁略伝』(湖中編) |
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蕣に我は飯くふおとこかな 和二角蓼蛍句一と有、「草の戸に我は蓼くふ螢哉」其角。世俗に心剛(つよ)き者を蓼喰虫と言によれるにや。蕣は翁若かりし時の吟と見へて虚栗に出て意気壮んなるにまかせ朝顔のもろきを観せず徒に飲食に明し暮すを爰に我をかへりみて述られしにや、いとも殊勝なり。 |
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あさかほに我は飯くふおとこかな 世ハたゝ朝顔の朝な朝なに起て物くひ枕を高くして宵寝する身のいたつらを観想の句なり。男哉とをける所、尤妙所といふへし。袖日記にいはく、「久かたのひかりのとけき春の日にしつ心なく花の散らむ」といへる手尓葉をしらされは此句聞事かたし。口受 |
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前橋市高田町樫村霞道翁の前庭に在るが、もと芳町某寺にと予定していたところ、戦争中いろいろ面倒があって自分の庭に建てる外なかったのだと聞いた。
『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著) |
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『虚栗』の、 和二角蓼蛍句一 朝顔に我は食(めし)くふ男かな になると、其角の「草の戸に我は蓼くふ螢かな」に和して詠んだ作で、「蓼食ふ虫も好きずき」という諺(ことわざ)を踏まえ、いささか世俗を嗤って奇を衒うところのある規格の態度に対して、朝顔に飯食ふ平凡な江戸庶民生活を対置したところに、かすかな笑いの余脈があるが、句そのものは従来の奇を主とした荘子的なものにくらべると、はるかに地味な、儒教的生活気分が土台になっていることが見られよう。 |
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明治14年(1881年)、樫村霞道は長野県小県郡傍陽村に生まれる。本名は高行。 昭和18年(1943年)、芭蕉の句碑を建立。 昭和25年 (1950年)、『上毛古俳家全集』刊。 昭和39年(1964年)、『多胡碑と羊太夫』刊。 昭和46年(1971年)11月2日、没。 |
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平成24年(2012年)2月、芭蕉の句碑は区画整理により樫村高男氏の別荘地(前橋市富士見町赤城山1204番地501)に移設。 |

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もと芳町某寺にと予定していた句碑が樫村霞道翁の前庭に、文京町3丁目の自治会館から樫村高男氏の別荘地に移設と、句碑にも歴史があるものだ。 その歴史の中で、行方不明になってしまう句碑もあるし、行方不明になったものが後日発見されることもある。 |
