蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532〜1554)、清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭11ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の16番札所でもある当寺は、天正15年(1587年)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。
京都市 |
此句、師の曰「「似合しや」とはじめ上五文字あり。口惜事也」といへり。其後は「春立や」と直りて短冊にも残り侍る也。
『三冊子』(土芳著) |
『諸国翁墳記』に「京寺町通今出川上ル三丁目阿弥陀寺山内ニ 蝶夢師碑並建 五升菴叟建之」とある。 |
似合しや新年古き米五升 芭蕉 天和四年、江戸深川芭蕉庵において、四十一歳の春を迎えたときの句である。芭蕉は天和元年(卅八歳)のころすでに自分が生存競争のはげしい都会の社会生活に堪えられる人間ではないことを自覚して、江戸郊外の静閑というよりも不便な深川に隠栖した。家は門人、杉風が提供したもの。薪炭米塩は門人の誰彼れが持ち寄つた。家具としては茶碗十個、菜刀一枚、米入れる瓢一つ。その瓢(大きな夕顔の実で作つて普通に炭斗に使うもの)には米が五升はいつた。元日の朝、芭蕉はその米入れに、去年貰つた米がいつぱい詰まつているのを見て、満悦した気持である。それを自分の生活として、似合わしい新年としてのめでたさだと感じたのである。「吾、唯、足ルヲ知ル」という有名な古語そのままの、めでたい気持ではあるまいか。
荻原井泉水『大 江』「一本の蘆の独り言」 |