旅のあれこれ


供 出

 大正15年(1926年)5月14日、北海道大学にクラーク像建立。昭和18年(1943年)6月、金属回収令により供出。昭和23年(1948年)10月、再建立。

 明治44年(1911年)、奥州市の水沢公園に後藤新平の銅像が大熊氏広の作によりに建立されたが太平洋戦争の際応召、昭和46年(1971年)4月22日、旧台座の上に日本ボーイスカウト初代総長の姿の銅像を建立。

 大正15年(1926年)8月28日、喜多方市の示現寺で瓜生岩子の銅像除幕式挙行。戦争で供出され、昭和30年(1955年)、再建。

 大正14年(1925年)、旧養育院長渋沢栄一銅像を建立。昭和18年(1943年)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られが、供出されないままに終戦を迎えた。

 大正8年(1919年)9月、浅草寺境内に市川團十郎の銅像を建立。昭和19年(1944年)11月30日、金属類回収のため供出。昭和61年(1986年)11月3日、再建。

 兜町の日証館は金属回収のため暖房設備やエレベーターなどが取りはずされ、供出された。

 昭和8年(1933年)、常盤橋公園に青淵澁澤榮一の像を建立。金属供出のために撤去。昭和30年(1955年)11月、再建。

 大正15年(1926年)、渋澤榮一翁の寿像は如水会館修復の時に再制作されたが、戦時中に供出。

 大正3年(1914年)、東京駅丸の内側に井上勝君像建立。本山白雲作。金属供出に伴い撤去。昭和34年(1959年)、朝倉文夫作により再建。

 渡辺長男氏の旧太田道灌像は旧東京市庁舎から撤去、供出された。昭和33年(1958年)、都庁舎に太田道灌像設置。製作者は朝倉文夫氏。

 大正2年(1913年)4月19日、芝公園に板垣退助像建立。昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲の中で金属供出され、再建されなかった。

 成田山公園の七代目団十郎と六世団蔵の銅像は戦時中供出された。昭和18年に八代目団蔵は七代目団蔵の追善供養の為、台座の上に虚子の句碑を建てた。

 渡辺長男氏の「高山彦九郎皇居望拝之像」建設。金属供出のため撤去された。昭和36年(1961年)、再建。

 昭和10年(1935年)5月11日、知恩院三門南に「風災学童慰霊塔」竣工除幕式挙行。昭和19年(1944年)、軍需資材として供出され、撤去された。昭和35年(1950年)、「師弟愛之像」再建。

 昭和18年(1943年)、明石市月照寺の梵鐘は戦時供出。昭和53年(1978年)、再鋳された。

 大正15年(1926年)、広島市の猿猴橋架設。装飾品は金属回収令により供出され、代替えである花崗岩が使用された。平成28年(2016年)、架け替え当時の姿へ復元。

 昭和10年(1935年)、広島市の比治山公園に加藤友三郎像建立。昭和18年(1933年)、金属供出により銅像は撤去された。平成20年(2008年)8月、中央公園に銅像再建。

 大正元年(1912年)12月25日、山口市の高田公園に井上馨銅像除幕式。戦時中に供出。昭和31年(1956年)、再建。

 昭和8年(1933年)、下関市の東行庵に山県有朋公像建立。金属供出で影を消したが、平成27年(2015年)春、新しく青年志士山県狂介像として復元。

 昭和11年(1936年)、道後公園に秋山好古の騎馬像が建設されたが、戦争中金属供出。

 高松市法然寺の梵鐘は金属供出に提供されたため、昭和24年(1949年)、改めて鋳造された。

 大正2年(1913年)、高知城本山白雲の山内一豊公之像を建設。平成8年(1996年)9月20日、銅像の原型をもとにして再建除幕された。

 大正12年(1923年)12月5日、初代板垣退助先生像除幕。昭和18年(1943年)9月2日、壮行式が行われ、供出。昭和31年(1956年)5月11日、再建除幕。

 明治36年(1903年)、大村の玖島城に大村純熈公像創建。昭和56年(1981年)5月、復元。

 昭和13年(1938年)5月、小倉の到津遊園地内に桃太郎像が建設された。戦時中、同園長の阿南哲朗氏がこの像を守り。金属回収を免れた。

 大正9年(1920年)、福岡市の金龍寺に貝原益軒先生銅像建設。太平洋戦争の為、供出。昭和40年(1965年)10月、再建。

 昭和12年(1937年)、西南戦争60年を記念して谷干城の像建設。第二次世界大戦中に金属提供され、昭和44年(1969年)に明治100年を記念して再建された。

 大正2年(1913年)、鍋島直正公像建立。武石弘三郎作。昭和19年(1944年)、戦時下の金属供出で撤去された。平成29年(2017年)3月4日、鍋島直正公像除幕。

 明治37年(1904年)7月15日、本山白雲の後藤象二郎銅像が東京芝公園に建立される。金属供出により撤去。再建されなかった。

道すがら虎の門より櫻田へかけて立連りし官衙の門墻を見るに、今まで鐵の鑄物なりしを悉く木製に取りかへたり。日比谷公園の垣は竹になしたり。此れ米國より鐵の輸出を斷られたる爲なるべく貧國物資の欠乏察するに餘りあり。過日荒物屋に物買ひに行きしに魚串金網はりがねの類久しき前より既に製造禁止となれる事を知りぬ。役人軍人輩の銅像をも取拂ひ隅田川の橋梁を昔の如く木製になさば物資の缺乏を補ひ、且又市街の醜觀を減ずべく一擧兩得の策たるを得べし。

『斷腸亭日乘』(昭和16年8月19日)

市内の堀割にかゝりし橋の欄干にて鐵製のものは悉く取去られてその跡に繩をひきたり。大川筋の橋はいかゞするにや。夜中はいよいよ歩かれぬ都となれり。

『斷腸亭日乘』(昭和18年12月28日)

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