今年の旅日記
秋山兄弟の銅像
〜酒井黙禅の句〜
梅津寺公園
駐車場の南の丘に秋山兄弟の銅像があるというので、行ってみた。
坂を上ると、右手に秋山好古の銅像があった。
秋山好古大将像
昭和10年(1935年)、建立。
秋山好古
松山藩士秋山久敬
(ひさたか)
の三男として愛媛県松山市
歩行町
に生まれる。海軍軍人秋山真之の実兄。
明治10年陸軍士官学校、16年陸軍大学を経て騎兵科を志す。20年フランスへ留学。
日清戦争では騎兵第一大隊長、後に騎兵学校長となり、明治陸軍の騎兵科を「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。日露戦争では騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵と奉天会戦等で戦い、敵の退路をおさえる陸戦最後のダメ押しに大功があった。第一及び近衛師団長を経て、大正5年大将となった。朝鮮軍司令官、教育総監、軍事参議官と陸軍の要職をつとめた。その後乞われて北予中学(現松山北高)の校長となり、後進の育英に尽力した。
司馬遼太郎
の小説「坂の上の雲に」弟真之とその親友正岡子規の3人が主人公となり、それぞれの人間と人生が語られている。
この像は昭和45年1月に再建された。
さらに5分ほど上ると、秋山真之の銅像があった。
知謀如湧
元帥伯爵東郷平八郎書
昭和6年(1931年)7月、建立。
秋山真之
松山藩士秋山久敬
(ひさたか)
の五男として愛媛県松山市歩行
(かち)
町に生まれる。好古は実兄。
15歳で上京し、親友の正岡子規と下宿した。その後、明治19年海軍兵学校に入学し、同校を首席卒業。日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。日露戦争で連合艦隊長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍。日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、戦局の大勢を決した。なお、この時掲げたZ旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮闘努力セヨ」の文は、真之の作である。
大正6年中将に進んだが、翌年病死。
この像は、
石手寺
境内にあったものを昭和43年9月に移転した。
左手に石碑がある。
北面
「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮闘努力せよ」
西面
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
南面
「梅が香やおまへとあしの子規真之」
秋山真之
(1868−1918 慶応4年−大正7年)
は子規が「剛友」と評した親友で、後に海軍中将になった。「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみをこめて表現したもの。酒井黙禅は福岡県柳川の人。
松山赤十字病院
長を勤め、俳句は虚子門、俳誌「柿」を創刊した。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
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