明治38年(1901年)11月、 電報通信社設立。 大正12年(1923年)5月、三宅坂に寺内元帥騎馬像設置。北村西望制作。 昭和18年(1943年)、銅像は供出で撤去される。 |
広告がわが国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。わが社は昭和25年7月1日その創立50年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当り、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。 |
渡辺崋山は寛政5年(1793年)にかつてこの場所にあった田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。 崋山は名を定静(さだやす)、通称を登(のぼり)といいます。はじめは華山、のちに崋山と号しました。文化6年(1809年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁に学んでいます。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会」にも参加しました。 天保10年(1839年)に執筆した『慎機論』で幕府の対外政策を批判したため、蛮社の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居を命じられます。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。 |