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黄檗山にて 春寒き通玄門の片開き |

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寛文元年(1661年)、中国僧隠元隆キ(※「王」+「奇」)禅師開創、境内4万2千坪の禅宗大寺院。国内でも数少ない七堂伽藍が左右対称に居並び、老松とともに中国情緒を醸し出す。 主要伽藍23棟の堂宇は明朝建築様式を誇り、その回廊にいたる迄国の指定する重要文化財である。又、総門の扁額第五代高泉書の「第一義」は禅の本題を如実に著わし、正統な法脈を受け継がれていることを証しており、扁額40面聯額44対ともに重要文化財である。 境内全域は寺院の守護神「龍」を表し、総門の左右には「龍目」井を配している。 |
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「わうばく」 黄檗宗大本山。万福寺。承応三年(一六五四)に来朝した隠元(一五九二−一六七三)が明代の様式にて造営したるもの。 |
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寛延3年(1750年)8月16日、白井鳥酔は萬福寺を訪れている。 |
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黄檗禅院 |
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仝十六日 |
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白壁の雲奥深し秋の山 |

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一字庵田上菊舎は、宝暦3年(1753)10月14日、現下関市豊北町田耕に生まれた。16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。子供がいなかったため、実家に復籍。俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790年)3月、38歳のときで、 |
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見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば |
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山門を出れば日本ぞ茶摘うた と詠んでいる。 黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑から茶摘うたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。 菊舎は、文政9年(1826年)8月23日、同市長府にて死去。享年74歳。 |
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句碑の銅板は第二次大戦中の金属供出により失われていたため、平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。 |
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一字庵菊舎は、女流俳家なり。本姓名を田上道と呼ぶ。宝暦三年十月十四日長門國田耕村に生る。父は長府藩士田上由永、母は豊田氏。由永は後改めて本荘了左と称す。菊舎十六歳にして郷里の著姓村田利之助に嫁し、二十四歳寡婦と為りて生家に復しぬ。二十九歳薙髪して奥羽東海の行脚に出て、途次美濃派の宗匠朝暮園傘狂の門を敲く。終生斯道に精進して遂に一家を成し、傍ら詩歌・書画・琴曲・茶儀の諸芸にも通暁せり。深く藩主梅門公の眷遇を蒙る。足跡殆ど海内に印し李紫溟・村井琴山・亀井南冥・小田海僊・小石元瑞・宗哲・費晴湖等の名流と交遊す。斯くて蘿月松風塵外にショウ(※「彳」+「尚」)ヨウ(※「彳」+「羊」)して婦節を全うし、文政九年八月二十三日長府に寂す。享寿七十四、徳応寺の塋域に葬る。文化九年出版の手折菊四巻は其主著なり。大正十一年十月十三日同府黄檗宗覚苑寺進藤端堂、同万松院山本提山両師発起して此句碑を建つ。
五世後裔本荘熊次郎撰 平成17年8月、菊舎顕彰会これを復元する。 |
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文化12年(1815年)、田上菊舎は再び萬福寺を訪れている。 |
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黄檗山に夏越しを興して、 山門をくゝつて今日の祓して もろこし人の心地こそすれ
『殘菊集 二』(都のしらへ) |
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黄檗山萬福寺 冬ざれの堂後堂あり松子落つ |
| 昭和14年(1939年)9月29日、星野立子は萬福寺に行く。 |
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九月二十九日。宇治黄檗山にゆく。風が少し強い。残 暑の日は萩叢や池の水馬や大きな虻にいろいろな光をは なたせてゐた。 黄檗に萩の嵐の一日を |
| 昭和14年(1939年)10月24日、会津八一は万福寺を訪れた。 |
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二十四日奈良を出で宇治市平等院黄檗山万福寺を礼す わうばく に のぼり いたれば まづ うれし もくあん の れん いんげん の がく |
| 昭和34年(1959年)5月31日、高野素十は萬福寺を訪れている。 |
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五月三十一日 黄檗山万福寺 二句 恐らくは鉄眼忌にも豆の飯 本山の豆飯の豆皆黄也
『芹』 |
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昭和37年(1962年)12月、石田波郷は萬福寺に遊ぶ。 |
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宇 治 茶團子に日の當り來し時雨かな 極月の松風もなし萬福寺 普茶料理しぐるる石蕗に似て寒し
『酒中花』 |
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昭和42年(1967年)5月20日・21日、高野素十は万福寺で芹十周年祝賀。 |
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同二十日、二十一日 芹十周年祝賀 黄檗山 万福寺 山門に第一義 の大字大額を掲ぐ 第一義浮葉即ち平らかに 第一義浮葉即ち斜めなり 人来り去り来り去り夏木かな
『芹』 |
