2018年〜石 川〜
石川四高記念文化交流館〜水原秋桜子の句碑〜
この建物は明治22年6月現在地に起工、24年(1891年)7月に完成した旧第四高等中学校本館である。設計は、当時文部技師であった山口半六、久留正道が行った。明治27年9月、第四高等学校と改称し、昭和25年3月学制改革により閉校した。 本館の屋根は寄棟造、外観は腰回り、軒回りに釉楽煉瓦や白煉瓦を用い、壁面の赤煉瓦と強いコントラストをつくり、意匠的にも煉瓦造り建造物の単調さを救っている。 屋根には、棟飾りや雪止めの金物のグリルをのせ、煉瓦造りの煙道を6か所に立て、変化を与えている。1階は主として教員室、事務室などに、2階は教室に使用された。 構造および形式は、煉瓦造り2階建桟瓦葺、正面玄関付きであり、建築面積は1068平方メートルである。 |
北の都に秋たけて |
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われ等二十の夢数ふ |
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男女の棲む國に |
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二八にかへるすべもなし |
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そのすべなきを謎ならで |
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盃捨てゝ歎かんや |
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醉へる心の吾れ若し |
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われ永久に緑なる |
高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに見を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍った星座から、一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。 それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、長く尾を曳いて疾走する星を見る。併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から、脱落し、天体を落下する星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。 |
昭和28年(1952年)10月23日夜、水原秋桜子は上野発金沢へ向かう。61歳の時である。 |
十月二十三日夜、上野発金沢へ向ふ。 二十四日朝、倶利伽羅峠をすぎて 残月にせまりて高し山の稲架 蓮枯れて空と触れたり河北潟
『帰心』 |
十月二十五日朝、金沢あさ井や旅館をいで、能登 へ向ふ。正午すぎ輪島着。漆器研究所にて 山茶花や金箔しづむ輪島塗
『玄魚』 |
香林坊から県庁の方へ進んで直ぐの筋を左へ曲る。左が仙石町、右は旧四高、今の金沢大学理学部。その仙石町にあさ井やという旅館がある。玄関の右にその句碑が立っている。自然石。懐紙型の面に 今見しを月下の石蕗に時雨来て 秋桜子は、能登行の時、この旅館に泊ったのだ。玄関の感じは料亭の北間楼によく似ている。 |
ちなみに、第1番目の秋桜子句碑は福島県北塩原村の五色沼、第2番目は千葉県市川市の弘法寺にある。 |