旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和8年 ・ 昭和11年 ・ 昭和16年

昭和16年(1941年)

   1月26日〜白米も切符制〜

午後町會の爺會費を集めに來りて言ふ。三月より白米も切符制となる筈にて目下支度中なり。勞働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割當なるべしと。むかし捨扶持二合半と言ひしことも思合はされて哀れなり。

   3月22日〜日本詩人協會〜

日本詩人協會とか稱する處より稱費三圓請求の郵便小爲替用紙を封入して參加を迫り來れり。會員人名を見るに蒲原土井野口あたりの古きところより佐藤春夫西條八十などの若手も交りたり。趣意書の文中には肇國の精神だの國語の淨化だの云ふ文字多く散見せり。抑この會は詩人協會と稱しながら和歌俳諧及漢詩朗詠等の作者に對しては交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。今日彼等の詩と稱するものは近代西洋韻文体の和譯若しくは其模倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ生れ出でざりしものならずや。その發生よりして直接に肇國の精神とは關係なきもの、又却て國語の濁化するに力ありしものならずや。藤村の詩にはわが唇を汝が口にやはか合さで措くべきやなど言ひしものありき。佐藤春夫の詩が國語の淨化する力ありとは滑稽至極といふべし。これ等の人々自らおのれを詩人なりと思へるは自惚の絶頂といふべし。木下杢太郎も亦この會員中に其名を連ねたり。彼等は今後十年を出でずして日本の文章は横にかき左からよむやうになるべき形勢今既に顕著なるを知らざるにや。今更國語の整理だの淨化だのと言ひはじむるは泥棒の去りたる後繩をよるが如し。

   4月16日〜賣名者〜

正午銀座洋服屋來る。洋服羅紗地この後はいよいよ惡くなる由。羊毛ますます少く絹糸多くなる故洋服着るよりは和服の方冬は暖になるべく、將來は洋服屋立ちがたくなるべしと語れり。この日活版摺の手紙にて上野清水堂のほとりで秋色さくらの發句をほりたる石を建る由。自ら披露し來れるものあり。發起人の名前は公爵某大將某博士某某などなり。先年蜀山人の狂歌をも上野に発てし由。賣名者の爲すところ滑稽至極といふべし。

   4月30日〜龜井戸

午後土州橋より龜井戸に至り菅廟に賽す。鳥居前の茶店皆店を閉め葛餅團子其他悉く品切の札を下げたり。藤棚下の掛茶屋にては怪しげなる蜜豆サイダーを賣りゐたり。この日風冷にて藤花未開かず杜鵑花のみ滿開なり。

   5月6日〜日本酒の配給〜

數日來市中いづこの煙草屋にも巻煙草なし。或店にてきくに毎日配給あれど早朝一二時間にて賣切となると云。又日本酒の配給は一家族に一個月一合の割當なり。これは飲食店へ配給せし殘りの酒なるべし。理研とやらにて化學的に調合せし酒なれば一種の臭氣ありて口にし難し。土方の飲む惡酒なりと言ふものもあり。

   5月8日〜市兵衛町大掃除〜

晴。市兵衛町大掃除なり電話にて近處の派出婦會より女を雇ふに、年二十二三圓顔の女もんぺをはきて來る。その顔と言葉使玉の井にて知る家の出方そつくりなれば、故郷は山形縣ならむと問ふにさうです、と言へり。戰爭此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。汽車の中にても捕へらるゝ時は直に送還せらるゝなり。親類にて東京に居住するものあれば前以て打合せをなし理由をつけて東京に旅立つなりと云ふ。江戸時代のはなしを聞く心地す。夜淺草に行く。菅原氏夫妻に逢ふ。今月より八の日は肉食禁止となりし由にて銀座淺草とも飲食店過半店をしめたり。

   7月25日〜火事場泥棒〜

くもりて蒸暑し。夜芝口の金兵衞に飯す。この店の料理人も召集せられて來月早々高崎の兵營に行く由なり。此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に佛領印度と蘭領印度の二箇所に侵入せり。この度の動員は蓋しこれが爲なりと。此の風説果して事實なりとすれば日軍の爲す所は歐洲の戰亂に乘じたる火事場泥棒に異らず。人の弱みにつけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり。斯くの如き無慈悲の行動は軈て日本國内の各個人の性行に影響を及すこと尠からざるべし。暗に強盗をよしと教るが如く(ママ)ものなればなり。

   8月5日〜ジヤム買ひに〜

晴。暮方谷町電車通のパン屋にジヤム買ひに行きしに主人言ふやう、パンにつけて食ふものは一向に賣れません。近頃パンを買ひに來る人は日に三百人位ありますがジヤムの罐は日に三ツ四ツ賣れゝばよい方なるべし。お客は以前とは全く違ふやうになりたり。これも時勢なるべし。此夜月佳し。

   8月19日〜官衙の門墻〜

道すがら虎の門より櫻田へかけて立連りし官衙の門墻を見るに、今まで鐵の鑄物なりしを悉く木製に取りかへたり。日比谷公園の垣は竹になしたり。此れ米國より鐵の輸出を斷られたる爲なるべく貧國物資の欠乏察するに餘りあり。過日荒物屋に物買ひに行きしに魚串金網はりがねの類久しき前より既に製造禁止となれる事を知りぬ。役人軍人輩の銅像をも取拂ひ隅田川の橋梁を昔の如く木製になさば物資の缺乏を補ひ、且又市街の醜觀を減ずべく一擧兩得の策たるを得べし。

   9月8日〜市中野菜拂底〜

風すゞしく萩の花散る。黄昏土州橋。淺草に飯す。東武鐵道淺草驛及上野停車場の出入口には大根胡瓜など携へたる男女多く徘徊して爭つてタキシに乘らむとするを見る。市中野菜拂底なれば思ひ思ひに近在へ出掛けるものなるべし。日本の食事にお茶漬に香ノ物を味ふことはむかしの夢とはなりしなり。戰爭に災害如何ともすべからず。

   9月9日〜煮豆買はむとて〜

晴。淺草公園の内外には食料品罐詰類他處に比して割合に多く殘りてあり。夜煮豆買はむとて行く。

   9月10日〜三木武吉

此日郵便物中報知新聞社より書を需め來れる手紙あり。之によりて三木武吉なるもの同社の長となれることを知りぬ。野間誠(ママ)治死後それを繼ぎしものにや。三木は世人既に知れるが如く神樂坂の待合松ヶ枝の亭主にして曾て東京市役所の疑獄に連坐せしもの。乃ち刑餘の罪人なり。而して公然新聞社の長となれり。社會道徳のいかに敗頽せるやを知るに足るべし。然れどもまた思ふに三木の輩は要するに舊時代の政治ゴロに過ぎず。之を今日の尊獨愛國者の危險なる策畧に比すれば尚恕すべきものあり。今日世界人道の爲に最恐るべきものはナチス模倣志士の爲すところなり。其害の及すところ日本國内のみに留まるにあらざればなり。

   9月20日〜神明宮祭禮〜

燈刻芝口に飯して後芝公園を歩む。神明宮祭禮なり。増上寺三門前の老松枯れし後切去られて今は殆無し。御靈屋門際の松も一二本殘れるのみ。これも遠からず枯死すべし。此日晴れて日の光照りわたれり。

   9月28日〜舊宅裏門前の坂〜

秋陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩す。傳通院前電車通より金富町の小徑に入る。幼時紙鳶あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しきこと怪しまるゝばかりなり。舊宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇立みて舊宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの靜けさ却てむかしに優りたり。

   10月18日〜日米開戰の噂〜

九段の祭禮なれば例年の如く雨ふり出して歇まず。此日内閣變りて人心恟々たり。日米開戰の噂益盛なり。

   10月27日〜大田南畝の墓〜

晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。

   11月8日〜迷信打破〜

世の噂をきくに本年九月以來軍人政府は迷信打破と稱し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず、十月中日本橋べつたら市のことも新聞紙は一齊に記載せざりしと云。清正公の勝まもりも迷信なるべく鰹節を勝武士なとゞ(ママ)かく事も軈て御法度となるべきや否やと笑ふ人もあり。

   12月8日〜日米開戰〜

日米開戰の號外出づ。歸途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乘りたる電車乘客雜沓せるが中に黄いろい聲を張上げて演舌をなすものあり。

   12月12日〜廣告文〜

開戰布告と共に街上電車其他到處に掲示せられし廣告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじりむかし英米我等の師困る億兆火の車とかきて路傍の共同便處に貼りしと云ふ。現代人のつくる廣告文には鐵だ力だ國力だ何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。寔に是駄句駄字と謂ふ可し。

   12月29日〜年末年始虚禮廢止〜

晴れて寒し。午後日本橋三井銀行に至るに支拂口に人押合ひたり。丸ノ内三菱銀行も同じ景況なり。如何なる故にや。町の辻々には戰爭だ年末年始虚禮廢止とやら書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり。も組の横町にも注目(ママ)飾賣るものあり。花屋には輪柳福壽草も見えたり。

   12月31日〜朝令暮改〜

晴。嚴寒昨日の如し。夜淺草に至り物買ひて後金兵衞に夕餉を喫す。電車終夜運轉の筈なりしに今日に至り俄に中止の由、貼札あり。何の故なるを知らず。朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。過日は唱歌螢の光は英國の民謡なれば以後禁止の由言傳へられしがこれも忽改められ從前通りとなれり。歸宅後執筆。観月窓を照す。寝に就かむとする時机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど除夜の鐘の鳴るをきかず。是亦戰亂の爲なるか。恐るべし恐るべし。

昭和17年(1942年)

   1月1日〜賀状一枚もなきは〜

舊暦のこよみを賣ることを禁ぜられたれば本年より我等は太陰暦の晦朔四季の節を知ること能はずなりぬ。昨夜月稍圓きを見たれば今日は十一月ならずば十二月の十三四日なるべきか。空晴渡りて一點の雲もなし。郵便受付箱に新年の賀状一枚もなきは法令の爲なるべし。人民の從順驚くべく悲しむべし。野間五造翁ひとり賀正と印刷せし葉書を寄せらる。翁今猶健在にて舊習を改めず。喜ぶべきなり。

   1月5日〜鹽醤油〜

寒氣忍びがたし。近鄰の人のはなしに鹽醤油とも去年の暮より品切となりいつ酒屋の店へ來るやら望なし。砂糖も十日過にならねば配給されざる由。いよいよ戦勝つて食ふものなき世となり行けり。

   1月8日〜興亞禁酒日〜

晴。午後物買ひにと銀座に行く。家毎に旗を出したり。人の問ふに毎月一日の興亞禁酒日本年より今日に變更の由。

   1月21日〜衣類の制限〜

衣類の制限一人前若干の事いよいよ決定せられ來月一日までは靴下足袋襁衣ふんどしなども買ふこと能はざる由なり。

   1月23日〜配給切符制〜

塵紙石鹸齒磨配給切符制になるべしとの風雪あり。市中より此等の品昨夜中に消失せたりと云。塵紙懐紙なくなり錢湯休日多くなる。戦勝國婦女子の不潔なること察すべきなり。

   2月21日〜理髪用の香油〜

歸途庄司理髪店に立寄る。化粧用の油石鹸正月頃より品切の由。この後理髪用の香油なくなる時は日本人は老弱を問はず刺栗頭にならざるを得ず。これ軍國政府の方針なりと云。

   4月18日〜ドーリットル空襲〜

(※「日」+「甫」)下芝口の金兵衞に至り初めてこの日午後敵國の飛行機來り弾丸を投下せし事を知りぬ。火災の起りしところ早稲田下目黒三河嶋淺草田中町邊なりと云。歌舞伎座晝間より休業、淺草興業物は夕方六時頃にて打出し夜は休業したりと云。新聞號外は出ず。

   4月19日〜ドーリットル空襲〜

(※「日」+「甫」)下金兵衞に至り人の語るところを聞くに大井町鐵道沿線の工場爆弾にて燒亡、男女職工二三百人死したる由。淺草今戸邊の人家に高射砲の弾丸の破片落來り怪我せし者あり、小松川邊の工場にも敵弾命中して火災にかゝりし所ありと云。新聞紙は例の如く沈黙せるを以て風説徒に紛々たるのみ。

   5月29日


   6月27日〜歌舞伎座〜

その途上歌舞伎座の前を過るに建物の裝飾に用ゐたる銅鐵類取はづしの最中なり。表入口の廡(ひさし)に取りつけし鳳凰繪看板の銅瓦も亦除かるゝが如し。新政府は劇塲の建築を以て現代の美術とはなさゞるものの如し。築地電車通の人家を見るに二階窓の欄干格子など鐵製のものは大方木材に取りかへられたり。

   6月28日〜オペラ館〜

晩間寺嶋町より千住を歩み淺草公園オペラ館に至る。館内の金具黄銅の手すり皆取除かる。道路に敷きたる溝の上の鐵板も土管に似たる燒物に取替へられたり。觀音堂のあたりは暗ければ見ず。

   10月13日〜雨が降るが例なり〜

毎年招魂社の祭禮と池上御會式の夜には雨が降るが例なり。今日も好く晴れたる空夜初更に至り雨俄に來り雷鳴り出しぬ。

   10月15日〜乘客雜沓〜

晴。晩にくもる。招魂社の祭にて市中電車の乘客雜沓すること甚し。晩食後淺草を歩む。三四日頃の月を見る。

   11月2日〜弁天山下〜

晴。午後淺草を歩す。觀音堂階前の鐵製用水桶、唐金燈籠、佛像及び弁天山の釣鐘等皆恙し。鳩も猶餓死せず。弁天山下のベンチに十七八の娘襟付の袷に前掛をしめ雜誌をよみ居るを見る。明治時代の女風俗を其儘見ることを得るは此土地の外には無かるべし。仲店にて茄子の麹漬を買ふ。

北原白秋歿年五十八

昭和18年(1943年)

   1月19日〜欧州戦況〜

晴。午後淺草に行く。坊間流言あり。侵魯の獨逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊國をおびやかしつゝありと。願くばこの流言眞實ならんことを。

   4月27日〜配給の日本酒〜

夜新橋の金兵衞に飯す。四五日來配給の日本酒途切れたりとて客をことはり居れり。招魂社祭禮にて酒は皆共に偕行社に買占められたる爲なりと云。

   5月13日〜配給所の炭俵〜

晴れて風はげし。市兵衞二丁目長與男爵邸塀外に配給所の炭俵積重ねられたり。毎夜人定りて後俵を破り少しづゝ盗み來る。この夜は警戒警報發令中にて街路寂寥通行人杜絶え勝なれば大に収獲あり。明朝はガスを用ずして朝飯を炊ぎ得べし。

   5月17日〜文学報国会〜

菊池寛の設立せし文學報國會なるもの一言の挨拶もなく余の名を其の會員名簿に載す。同會々長は余の嫌惡する徳富蘇峯なり。余は無斷にて人の名義を濫用する報國會の不徳を責めてやらむかと思ひしが是却て豎子をして名をなさしむるものなるべしと思返して捨置くことゝす。

   5月20日〜防火用服装〜

路上禁烟とかきたる貼紙市中到るところ目につくやうになれり。去年冬頃より始りしと云。この頃また防火用服装をなさず平服にて市中を歩めば翼賛會青年團と稱する者之を誰何する由。但し余はいまだ幸にして其耻辱に遇はず。此日朝より雨ふりしきりて終日歇まず。

   7月27日〜ムツソリニ内閣顛覆〜

日盛りに外務省出仕する某々子訪來り米軍羅馬を襲ひムツソリニ内閣顛覆せし由を語る。

   8月17日〜お歌來る〜

晴。夜六番町のお歌來る。カマス干物一枚一圓鰺干物一枚一圓ベアス石鹸を貰ふ。九時その歸るを送りて我善坊崖上の暗き道を歩み飯倉電車通りに出づ。十七年前妾宅壺中庵の在りし處なり。徃事茫々夢の如し。

   8月23日〜お歌より電話〜

炊事と炎暑とにつかれ果てしが如し。夕方六番町なるお歌の家より電話にて汁粉つくりたればと言來りしが出で行く元氣なかりき。晴天旬餘に及ぶ。

   8月26日〜島崎藤村歿〜

又兩三日前島崎藤村歿行年七十二なりと云。余島崎氏とは交遊なかりき。曾て明治末年三田に勤務せし頃一囘何かの用事にて面會せしことのありしのみ。

   9月9日〜伊太利亞降伏〜

上野動物園の猛獣はこの程毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを豫期せしが爲なりと云。夕刊紙に伊太利亞政府無條件にて英米軍に降伏せし事を載す。秘密にしては居られぬ爲なるべし。

   9月24日〜法文經濟科廢止〜

世の噂に來年より官私立の大學中法文經濟科廢止。學生は悉く兵營に送込るゝことになると云。

   10月27日〜禅林寺

晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃澁谷より吉祥寺行の電車に乘りぬ。

   11月18日〜コ田秋聲歿〜

電車乘換えの際金兵衞の門口を窺見るに凌霜清潭齋藤氏等來り居たれば入りて倶に夕餉を喫す。人々の語るをきくにコ田秋聲行年七十三を以て昨日病歿せしと云。

   12月28日〜橋の欄干〜

市内の堀割にかゝりし橋の欄干にて鐵製のものは悉く取去られてその跡に繩をひきたり。大川筋の橋はいかゞするにや。夜中はいよいよ歩かれぬ都となれり。

昭和19年(1944年)

   1月18日〜人生の眞味〜

日も暮近き頃電話かゝりて十年前三番町にて幾代と云ふ待合茶屋出させ置きたるお歌たづね來れり。其後再び藝妓になり柳橋に出てゐるとて夜も八時過まで何や彼やはなしは盡きざりき。お歌中洲の茶屋彌生の厄介になりゐたりし阿部さだといふ女と心やすくなり今もつて徠徃(ゆきゝ)もする由。現在は谷中初音町のアパートに年下の男と同棲せりと云。どこか足りないところのある女なりと云。お歌余と別れし後も余が家に尋ね來りし事今日がはじめてにはあらず。三四年前赤坂氷川町邊に知る人ありて尋ねし歸りなりとて來りしことあり。思出せば昭和二年の秋なりけり。一圓本全集にて以外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり。お歌今だに其時の事を忘れざるにや。その心の中は知らざれど老後戰亂の世に遭遇し獨り舊廬に呻吟する時むかしの人の尋來るに逢ふは涙ぐまるゝまで嬉しきものなり。此次はいつまた相逢うて語らふことを得るや。若し空襲來らば互にその行衞を知らざるに至べし。然らずとするも余はいつまでこゝにかうして餘命を貪り得るにや。今日の會合が最終の會合ならんも亦知る可らず。これを思ふ時の心のさびしさと果敢さ。此れ人生の眞味なるべし。松過ぎて思はぬ人に逢ふ夜かな

   3月4日〜谷崎潤一郎

晴。正午谷崎君來り訪はる。其女の嫁して澁谷に住めるを空襲の危難あれば熱海の寓居につれ行かんとする途次なりと言ふ。余去冬上野鶯溪の酒樓に相見し時余が全集及遺稿の仕末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるゝところあり。世人この三月になりてより空襲近しとて俄に騒ぎ出せり。

   3月24日〜オペラ館樂屋〜

陰。西北の風吹きすさみて寒し。午後日本橋四辻赤木屋にて債権を賣り、地下鐵にて淺草に行きオペラ館樂屋を訪ふ。公園六區の興行場も十箇所ほど取拂となるべき由聞きたればなり。オペラ館樂屋頭取長澤某のはなしをきくに、今月三十一日にていよいよ解散します。役者の大半は靜岡の劇場へやる手筈ですとの事なり。二階の踊子部屋に入りて見るに踊子達はさして驚き悲しむ様子もなく平生の如く雜談し居れり。

   3月27日〜懐中電燈〜

舊道に出で白髯橋の方に歩む。電球屋にて電球一ツ懐中電燈を購ふ。又下駄屋にて下駄を買ふ。これ等のもの我家の近くにては皆品切なるにこの陋巷にては買手あれば惜し氣なく賣るなり。此日の散策大に獲るところありしを喜びつゝ來路をバスにて言問橋に出づ。

   3月31日〜オペラ館取拂〜

昨日小川來りて、オペラ館取拂となるにつき明日が最後の興行なれば是非とも來たまへと言ひてかへりし故、五時過夕餉をすませ地下鐵にて田原町より黄昏の光をたよりに歩みを運ぶ。二階踊子の大部屋に入るに女達の鏡臺既に一ツ殘らず取片づけられ、母親らしき老婆二三人來り風呂敷包手道具雨傘など持去るもあり。八時過レヴューの演奏終り看客立去るを待ち、館主田代旋太郎一座の男女を舞臺に集め告別の辭を述べ樂屋頭取長澤一座に代りて答辭を述る中感極り聲をあげて泣出せり。これにさそはれ男女の藝人凡四五十人一齊に涙を啜りぬ。踊子の中には部屋にかへりて歸支度しつゝ猶しくしく泣くもあり。各その住處番地を紙にかきて取交し別を惜しむさま、數日前新聞紙に取拂の記事出でし時余窃に様子を見に來りし時とは全く同じからず。余も覺えず貰泣せし程なり。囘顧するに余の始めてこの樂屋に入込み踊子の裸になりて衣裳着かふるさまを見てよろこびしは昭和十二年の暮なれば早くも七年の歳月を經たり。オペラ館は淺草興行物の中眞に淺草らしき遊蕩無頼の情趣を殘せし最後の別天地なればその取拂はるゝと共にこの懐しき情味も再び掬し味ふこと能はざるなり。余は六十になりし時偶然この別天地を發見し或時は殆毎日來り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。

   4月6日〜團十郎の銅像

オペラ館戸口には政府の御命令により三月卅一日限り謹んで休業仕候の貼紙を出したり。萬盛座はその中公園内にて代地を賜るまで一時休業といふ如き掲示をなす。昭和座三友館等は唯戸を閉せしのみ。觀音堂境内を過くるに團十郎の銅像今も猶在り。言問橋の通の大衆食堂には人々行列をなして五時過の開店を待つ。

   4月16日〜芝の御靈屋

午後芝の御靈屋觀むとて行く。増上寺三門前電車通の古松は悉く伐られて今は一株もなし。三門内の假小屋にて切符を購ひ初に北側の御廟二箇所を拜觀し次に南側の廟及奥の院を拜觀す。境内の樹木も枯れて伐去られしが多し。また拜殿の内部壁画の前に置かれし器物も大方今は無し。余三田の大學に通勤せし折々來り觀し時に比すれば荒廢の氣味彌深きものあり。囘顧すれば三十年を經たればさもあるべきことなり。南側台徳院霊廟唐門の前水屋のほとりに立ちし槇の大木も枯れかけたり。こゝの水屋は石の柱に告ツの彩色を施せしをその頃余は殊に珍しく思ひたりしが今日來りみればその彩色大方剥落したり。北側なる御廟の中そのはづれなる廟の中門外に立並びし唐金の燈籠は大方取除かれて石の臺のみを殘したり。今頃はいづこかの工場にて鑄潰されしなるべし。然るに廟の外に立てる後藤象次(ママ)郎の銅像は依然として恙なきを見る。軍人政府の政策常に公平ならざること實に此くの如し。

   7月13日〜サイパン島〜

山梨縣靜岡縣あたりの田地は雨なき爲龜裂を生じいまだに稻の植付をなさざるところあり。又埼玉縣にては學生を狩集めて稻を植させしため大半枯死せり。本年はいよいよ米も食へぬやうになるべしと云。サイパン島に送られし兵士は主に靜岡縣の人民にて六月五六日かの島に上陸同月二十五六日頃には大方戰死せしと云。

   7月23日〜伊東の温泉宿〜

日曜日晴。凉風秋の如し。華氏七十六度。午後木戸氏來話伊豆伊東の温泉宿は一軒殘らず兵卒の宿舎に當てられたり。軈て伊豆七島へ送らるゝと云。熱海の旅館は小學生徒の避難所にせられたり。

内閣更迭スト云

   9月21日〜牛天神附近〜

秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば從つて其裏手なるなか町の様子も今は全く舊觀を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金富町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、裏隣の昔田尻子爵の邸には東方社の札下げられたり。もと來し道をたどり安藤坂に出で、牛天神の境内を見て後、表の石段を降るに安藤坂の下民家取拂はれ、諏訪神社の社殿のみ空地の上に取殘されたり。諏訪町の民家半分ほど取壞されたり。

   10月23日〜梅若塚の堤〜

乘合自働車にて公園裏より白髯橋に至り梅若塚の堤を歩す。小工場激増したり。玉の井に至る裏町の荒物屋に土鍋ほうろくなど麻布邊には既に賣り切れてなき物多く並べたり。焜爐の灰落し杓子を買ふ。

   12月11日〜地震の源地〜

夜半過警報二囘。門前の穴に入るに鄰人M氏既に在り。其人の談に二三日前午後にありし地震の源地は濱松邊にて天龍川の鐵道鐵橋落ち汽車今もつて不通なり。又死傷者多かりしと云。

昭和20年(1945年)

   3月9日〜偏奇館焼亡〜

   天気快晴、夜半空襲あり、翌曉四時わが偏奇館曉亡す、火は初長垂(なだれ)坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。

   3月10日〜東京大空襲

昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝田町に及べり。淺草觀音寺、五重塔、六區見世物町、吉原遊郭燒亡、芝搶緕及靈廟も烏有に歸す、明治座に避難せしもの悉く燒死す。本所深川の町々、亀井戸天神、向嶋一帶、玉の井の色里凡て烏有となれりと云。

   5月10日〜関口芭蕉庵

晴、ホ(※「日」+「甫」)下散歩、小瀧橋よりバスに乘り早稲田に至る、高田の驛を過るに見渡すかぎり焼原なり、線路土手の草のみ青きこと染むるが如し、バス終點より歩みて駒塚橋を渡る、目白臺の新樹鬱然、芭蕉庵門内の老松また恙なく緑の芽の長く舒(の)びたるを見る、門の柱に小石川区區關口臺町廿九番地、史蹟芭蕉庵、また服部富服部敏幸とかきし小札を出したり、門外の急坂を上り路傍の小祠に賽し銀杏の樹下に小憩して後再び來路をバスに乘りてかへる。

   6月8日〜明石の市街〜

乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘の風殊に愛すべし、石級を昇るに往徃時の城樓石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所寫眞入の土産物を賣る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁茶と共に甘いものもありますとて一碗を勸む、味ふに麥こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天守臺の跡に立ち眼下に市街及江灣を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工場の烟突林立せり。これが爲既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は舊市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拜し林間の石徑を上りまた下りて人丸神社に至る、石磴の麓に龜齡井(かめのゐ)と稱する靈泉あり、掬するに清冷氷の如し、神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海灣爛漫たるを見る、麥もまた熟したり、

   9月1日〜新橋から熱海〜

朝早く雨中に鈴木氏の家を去り、五叟が女弟子にて新橋驛の裏手に焼け殘りしビルヂング内に住める者ある由、鈴木氏より聞知りたれば、直に尋ね到り事の次第を告ぐ、五叟の弟子恰も熱海に行くべき用事ありと言ふにさらばとて、其者と共に新橋よりまたもや汽車に乘りホ(※「日」+「甫」)下熱海に至る、五叟と其家族とに會ひ互に別後の事を語り身の恙なきを賀す、

『斷腸亭日乘』B

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