2023年山 口

亀山公園山頂広場〜毛利敬親公之像〜
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山口市亀山町の高台に亀山公園山頂広場がある。


亀山公園山頂広場の歴史

 亀山は古くから長山と呼ばれ、戦国時代末期には山と山廻りの堀内を城地とする長山城が築かれた。その後、関ヶ原合戦直前の慶長4年(1599年)、毛利輝元の従弟・毛利秀元がここに築城をはじめたが、合戦の敗北で長府に移ったため、城は未完成であった。

 時は流れて明治22年(1889年)、忠正公(毛利敬親)御由緒会が、明治維新における長州藩の功績顕彰のため銅像建立を発起し(総裁山田顕義、顧問井上馨、後の総裁伊藤博文)、当時としては珍しい西洋式銅像の建立プロジェクトがはじまる。当初は敬親公の銅像1基のみを建立する計画であったが、敬親公のかつての居館や墓所に近く、山口のまちを見渡せる亀山の山頂を山口県の形に見立て、敬親公の銅像を中心に、旧藩領の所在地に該当する場所に四支藩主の像をあわせて建立することとなった。

 明治25年(1892年)11月に起工し、明治33年(1900年)4月に除幕式が執り行われ、一大銅像公園として開園した。銅像の建設資金は、防長の有志者十万人余の寄付などで調達されたという。なお、銅像建設の最中に亡くなった毛利元徳公の銅像も建立することとなり、明治39年(1906年)10月に除幕式が執り行われた。ちなみに銅像の制作は、日本の洋風塑像の創始者・長沼守敬(もりよし)があたった。

 ところが、第二次世界大戦下の昭和19年(1944年)、これらの銅像は兵器の材料として供出され、跡には台座が残されるだけとなった。その後、昭和55年(1980年)に、山口市制施行50周年を記念して、毛利敬親公の新たな銅像を造立し、今日に到っている。

 この度、明治維新150年を記念して、山頂広場を再整備するにあたり、かつてこの地に幕末から明治へと日本が変わる原動力を生み出した長州の誇りと、旧本藩支藩の団結を象徴する6体の銅像が建ち、多くの市民の憩いの場となっていた歴史をここに再び顕彰する。


   

毛利敬親像
   
吉川経幹像

   

毛利元徳像
   
毛利元蕃像

   

毛利元純像
   
毛利元周像

昭和17年(1942年)7月18日、長沼守敬没。

毛利敬親公之像


毛利敬親公は、長州藩十三代の当主である。風雲急をつげる幕末、公は家臣らと共に尊皇の志を固くし、多難な時局にそなえ、藩庁を萩から山口に移した。ここに現在の山口市の礎が築かれた。以後この地は明治維新の策源地となり、公は常に諸大名の先頭にたち、大義を誤らず、よく内外の事情を把握して近代国家の成立に尽くした。明治4年(1871年)山口で歿した。

昭和55年(1980年)3月、山口市制施行50周年記念に再建。

前方から


御 製


   松上雪

ふりつもるみゆきにたへていろかへぬ

松そ雄々しき人もかくあれ

この御歌は昭和21年の歌会始の御題「松上雪」を詠まれたものです。

国木田独歩の詩碑


独歩は千葉県に生まれたが、父が裁判所に勤務していたので、その転勤につれて、広島、岩国、柳井、山口を転居した。

独歩が山口に来たのは、13歳のときで、山口の今道小学校に学び、更に山口中学校に入学した。

このように独歩は山口に第二の故郷として少年時代を過ごしたので、独歩の作品には「山の力」「帰去来」をはじめ詩などにも山口を背景にしたものが多いのである。この亀山は山口中学校のすぐ近くにあつたので、少年の独歩はよくここで遊んだことであろう。

碑の「山林に自由存す」の文字は独歩の自筆原稿を拡大したものである。

裏面には杉敏介氏の書で柳田国男氏の撰文が記してある。

「柳田国男氏の撰文」は見なかった。

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