2021年東 京

皇居外苑〜楠木正成像〜
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 大正3年(1914年)、辰野金吾の設計で東京駅開業。駅舎には、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造株式会社製のれんがが使用されたそうだ。

東京駅丸の内駅舎


平成24年(2012年)、創建当時の姿に復原。

国指定重要文化財である。

東京駅前に正二位勲一等子爵井上勝君像があった。


 文久3年(1863年)、井上勝は井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤博文と共に5人でイギリス留学。

 明治23年(1890年)9月6日、鉄道局が鉄道庁と改称され鉄道庁長官となる。井上勝は日本の鉄道の父と呼ばれる。

 明治24年(1891年)、井上勝は小野義眞・岩崎弥之助と共同で小岩井農場(小岩井農牧株式会社)を創立。

 明治43年(1910年)、鉄道院顧問として視察中のロンドンにて客死。享年66。品川区の東海寺大山墓地に眠る

 大正3年(1914年)12月6日、井上勝君像除幕。本山白雲作。

是日栄一、東京駅前広場ニ於テ挙行セラレタル、井上勝銅像除幕式ニ出席シテ、追悼演説ヲナス。

『渋沢栄一伝記資料』

再びお榮を伴ひ三菱銀行に赴く。馬場先門外より八重洲町大通、露店櫛比し、野菜牛肉を賣る。

『斷腸亭日乘』(大正12年10月13日)

若し電車に乘りて道を京橋に取れば馬場先門跡を通る時脱帽敬禮を強制せらるゝを以て、芝口銀座の道を取りて雷門に至る。

『斷腸亭日乘』(昭和13年12月21日)

旧像は戦時中の金属供出に伴い撤去。

昭和34年(1959年)、朝倉文夫により再建。

国道1号を和田倉門から馬場先門へ。


久し振りの晴天である。

馬場先門跡

 門の名は、寛永期(1624〜1644)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。 門は寛永6年(1629年)に築造されました。 枡形石垣は明治39年(1906年)に撤去されました。

 明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。

特別史跡江戸城跡

 江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。

 以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。

 この江戸城跡は、300年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

環境省皇居外苑管理事務所

楠木正成像


祖先友信開伊
豫別子山銅坑子
孫繼業二百季亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
家允未果繼其志
菫工事及功竣謹獻
明治三十年一月
従五位住友吉左衛門謹識

明治33年(1910年)7月、住友家が別子銅山開山200年の記念に献納。



 楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(1288〜1339)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。

 この銅像は、隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。

 高村光雲が頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当したそうだ。

上野の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と共に東京三大銅像の一つ。

 昭和9年(1934年)12月2日、高浜虚子は武蔵野探勝会の東京名所遊覧で楠公銅像へ。高浜年尾星野立子等同行。

   楠公銅像

「……湊川出陣のお姿で京都の御所に向ひましてお別れの最敬礼をなさつて……雀が安全地帯とばかりに兜や馬の尻尾の中に巣をくひまして楠公の忠節をたゝへる様に毎日忠々と鳴いてゐます。この非常時に当り私達は雀から何か教へられるものがございます……。」

 馬場先門には成程外にも沢山の遊覧バスが並んでゐた。一同間違はぬやうに三十四号に乗る。

『武蔵野探勝』(東京名所遊覧)

楠木正成像は戦時中の金属回収令の対象にならなかった。

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