2022年〜東 京〜
有栖川宮記念公園〜有栖川宮熾仁親王の銅像園〜
有栖川宮記念公園が赤坂からうつってきた盛岡藩南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂) |
この地は江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷でしたが、明治29年(1896年)に有栖川宮御用地となり、更に大正2年(1913年)には高松宮御用地となりました。その後、児童の自然教育および健康に格別の関心をもたれた高松宮殿下が、昭和9年(1934年)1月5日、故有栖川威仁親王の御命日にちなんで御用地約11,000坪(36,325m)を公園地として賜与され、当時の東京市は直ちに工事を進め、同年11月17日有栖川宮記念公園と命名し開園したものです。 本園は都心にはまれな閑雅な地であり、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっております。 またウメやサクラ、ハナミズキなどをはじめとして四季折々の花も多く、秋にはカエデやモミジの紅葉も楽しむことができます。 また、園内の広場には本園にゆかりの深い故有栖川宮熾仁親王の銅像があります。 なお、現在は麻布野球場と庭球場を編入し、本園の総面積は67.131uです。 |
嘉永4年(1851年)、熾仁親王は17歳の時に孝明天皇の妹和宮親子内親王と婚約。 安政7年(1860年)、大老井伊直弼や関白九条尚忠らの運動により和宮は将軍徳川家茂と結婚させることになった。 明治元年(1868年)、大倉喜八郎は有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。 明治4年(1871年)、福岡藩知事。 |
有栖川宮熾仁親王(1835〜1895)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895年)1月に亡くなられました。 この銅像は 大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903年)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962年)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。 |
軽くしごけば新聞の インキがプンと匂います 大事にかかえて走るとき マラソン選手のようでしょう ぼくは元気な新聞や |
毎朝毎晩、私たちの待っている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。 雨にも、風にも、負けないで元気に働く少年たちです。 その清純な姿が朝倉響子氏の手によって表現されました。 この像は、少年たちには、仕事への誇りと責任を、 大人には、働く少年たちへもっと愛の想いをと、 呼びかけているのです。 |
大正14年(1925年)12月9日、朝倉響子は朝倉文夫の次女として東京に生まれる。本名は矜子。 平成28年(2016年)5月30日、没。 |
この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治29年有栖川宮家の御用地となり大正2年高松宮殿下がこれを受けつがれた。 殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが 昭和9年1月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である本都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手同年11月これを完工し広く都民に開放したものである
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