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2本の門柱の上の方に冠木とよぶ横木を貫いてわたした形式の門。千畳敷の発掘調査では門の跡が発見されたことはなく、その位置・形式は不明であるが、織田信長居館跡の整備にあたって、岐阜城主の館が建てられていた頃の雰囲気を伝えるため、往時の姿を想定した門を設置して史跡への入口とした。 |

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永禄10年(1567年)9月18日、織田信長が岐阜に本拠を移した時、下級武士である山内一豊も岐阜に移りました。 岐阜城下に居を構えた一豊は、時をおかず千代を迎え、新婚生活を始めました。 婚礼の日「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」「生涯私だけを愛してください」と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました。 |
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長良川上流に位置する郡上八幡では、千代は初代郡上八幡城主の娘といわれています。 水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました。 やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました。 ひと雫から渓流へ、滔々たる流れから大海へ、千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものといえます。 千代の心奥深くで輝き続けた、美しく優しく時に厳しい長良川、一豊にそそいだ千代の愛、それは長良川から授かった、清流のひと雫だったのかもしれません。 |
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千代が一豊に嫁ぐ際、「夫の大事に初めて之を使うように」と言い含められ、鏡箱に金10枚を忍ばせ持参した。貧しい暮らしながらも、千代は決して、その隠し金を使わなかった。 ある日、市に出された名馬に、一豊は釘付けになる。値は誰も手が出ない金10枚。千代は隠し金を一豊に差し出し、ついに一豊は名馬を手に入れる。 信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台、信長から名馬とその心構えを讃えられ、一豊は出世を掴む事になる。 |

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国登録有形文化財 |
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大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として記念塔の建設が企画され、岐阜市が市民の寄付も募ったうえで、大正6年(1917年)11月21日にこの三重塔を建立しました。 材木には明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾大地震により倒壊した長良橋の古材が利用されています。 石造りの二重基壇の上に建つ木造三重塔で、各層とも3間四方のつくりです。中央の心柱は、鎖で吊り下げて礎石から浮かした懸垂式と呼ばれるもので、江戸後期から明治にかけて、全国でもわずかな例しか見られない特徴的な方式です。 装飾を用いない古風で調和の取れた意匠は、明治神宮などを設計し日本建築史学の創始者と評される伊東忠太氏の手によるものです。 また塔を建てるのにふさわしい場所としてこの地を選んだのは、岐阜市内の小学校を卒業している日本画家、川合玉堂だと言われています。
岐阜市教育委員会 |

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貞亨5年(1688年)夏、『笈の小文』の旅の帰路に岐阜の稲葉山で詠まれた句。 |
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大正14年(1925年)7月18日、荻原井泉水は岐阜公園で芭蕉の句碑を見ている。 |
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丸山を越え、千畳敷(もと城主の住んだ屋敷跡)を過ぎ、岐阜公園につづく処、清水が滝になって落ちる池の畔に芭蕉の句碑が立っている。句は「城跡や」で、碑蔭に「明治二十一年七月建之、岐山社」とあった。
『随筆芭蕉』(稲葉山と長良川) |

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明治15年4月6日午後1時、時の自由党総理板垣退助が中教院にて演説を行う。参会者100余名。夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚ケイ(※ケイは「耿」の下に「衣」)が総理の胸を刺す。総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。即ち板垣総理遭難の地である。
岐阜市 |
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大正8年(1919年)、旧像除幕。 昭和18年(1943年)、金属供出のため撤去。 昭和25年(1950年)、新像除幕。柴田佳石制作。 昭和28年(1953年)、柴田佳石は福澤諭吉像を制作。 |
