2023年福 岡

平野二郎國臣像〜西公園〜
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福岡市中央区西公園に平野二郎國臣像があった。


平野國臣(1828〜1864)〜明治維新の礎となった福岡の志士〜

 平野國臣は、文政11年3月福岡の地行下町(中央区今川1丁目)で生まれる。

 父親は、神道夢想流杖術師範・平野能栄、國臣は二男、14才で小金丸家の養子となる。

 弘化2年18才の春、黒田藩普請方手附として任官。江戸・長崎の勤務を通して文武両道の修行に励み国学・史学・天文学等を学んだ。24才の時、薩摩藩の北条右門と知り合い、国事を論じ幕藩体制の危うさや、これからの国の在り方などについて深く考える。

 安政4年(1857年)、国のために働くことを決意、養家を出て、妻子はもとより仕官等の一切の束縛を断ち切り、一人の国の民であるとの思いから名前を國臣に改名。

 安政5年、勤皇僧月照を薩摩に送り届ける。月照と西郷隆盛、錦江湾に入水し同船の國臣が救助して西郷隆盛は蘇生。「幕府の滅亡・日本の統一」を目指し諸藩の志士たちと交流、「回天管見策」「培覆論」「回天三策」など、幾多の論文や建白書を書いた。

 伊集院の山から桜島を遠望し、雄藩薩摩の決起を願った歌

      「我胸の燃ゆる思いにくらぶれば烟はうすし桜島山」

の歌はよく知られている。


 文久2年(1862年)、藩主の上洛阻止の罪で桝木屋の牢に捕られる。獄中筆硯を許されず、こより文字を考案し8,000字を越える建策、論説、書簡等を著した。和歌だけでも350首に上り、「征寇説」「神武必勝論」上、中、下は名著である。

 文久3年朝旨により禁固を解かれ福岡藩藩命により重役補佐役で上洛する。8月に天誅組による大和の変が起こり、10月の生野義挙では、七卿の一人の澤宣嘉卿を担いで大将に推挙された國臣は敗れて捕らわれの身となり京都六角の獄に拘囚された。

 元治元年(1864年)7月、禁門の変の際、獄吏に討たれる。

 秀でた国学者で文人・歌人でもある國臣は燃え立つ憂国の情を数々の和歌や建策、論説に託しながら動乱の幕末、江戸、京都、大阪、長州、但馬、果ては筑後、肥後、天草、薩摩と身の危険も顧みず、同志を求め、雄藩の決起を促し多くの志士達と共に新しい国家誕生のために身を捨てて、大義に生きた。その短い生涯は混乱の世に国の在り方を思い、その見識と献身的行動は明治維新の礎石となった。

享年37才。辞世の漢詩

      憂国十年 東走西馳 成敗在天 魂魄帰地

平成23年の冬、発見された平野家資料によると

      憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄帰地

と書き記されており、追補する。

大正4年(1915年)、平野二郎國臣像建立。

昭和2年(1927年)、安永良徳は東京美術学校彫刻科を卒業。

昭和18年(1943年)、平野二郎國臣像は戦時供出

昭和20年(1945年)、安永良徳はシベリアに抑留。

昭和22年(1947年)、復員。福岡に定住。

昭和39年(1964年)、平野國臣百年祭で平野二郎國臣像再建。

昭和55年(1970年)9月12日、安永良徳は68歳で没。

光雲神社へ。

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