寺伝によれば、永正5年(1508年)怡土(いと)郡高祖(たかそ)村(現在の糸島市)に、領主原田氏の菩提寺として創建されました。慶長16年(1611年)に一時荒戸山に移転し、慶安2年(1649年)福岡藩二代藩主黒田忠之によってこの地に移されました。境内には、近世福岡を代表する学者貝原益軒とその夫人東軒の墓、益軒の銅像、大正から昭和初期に活躍した倉田百三の文学碑があります。
福岡市 |
樸陋之質(素朴でしかもいやしい性質で) 衰朽之躯(なお衰え果てたこの身体) 引鏡窺影(鏡を引きよせて自分の姿を見ると) 彷彿画図(自画像そっくりに似ている) 玩古不倦(昔の事ばかり学んでも飽きるがない) 至老増娯(年老いて増々楽しんでいる) 千慮有得(愚者も千慮すれば一得ありと云うが) 斯語庶乎(この言葉は私にあてはまるであろう) |
大正9年(1920年)、銅像建設。太平洋戦争の為、供出。 昭和40年(1965年)10月、再建。 |
貝原益軒先生(1630―1714)ハ福岡ガ生ンダ江戸時代ノ偉大ナル先覚デアリ且ツ大儒トシテ多クノ著作ト教訓トヲ遺サレ世ニ裨益スル所頗ル大デアツタコトハ世人ノヨク知ル所デアル 大正九年ソノ遺徳ヲ顕彰スベク金龍寺ニ銅像ガ建設サレタガ太平洋戦争ノタメ供出ヲ命ゼラレ久シク心アル人々ヲ痛歎サセテイタ 然ルニ昭和廿八年福岡市長小西春雄氏ガ委員長トシテ緒方竹虎氏始メ地元有志ノ協力ヲ得テソノ再建ガ計画サレ原型マデ出来上リ台座モ亦コノ処ニ移築ヲ見タガ偶々委員長ノ急逝ト経済界ノ変動トニアイソノ儘中断シテ今日ニ及ンデイタ 端ナクモ今秋ハ先生ノ二百五十年忌ニ当ルノデ関係者相計リ茲ニコレガ再建ヲ企テ有志ノ方々ノ協賛ヲ得テ銅像ヲ復元シソノ完成ヲ見ルニ至ツタノデアル顧ルニ再建計画以来既ニ二十余年両度ニ及ブ各位ノ御協力ニ依リコノ挙ガ実ヲ結ンダコトヲ深ク喜ビ先生ノ遺徳永ク郷土ノ後進ニ垂示サレンコトヲ希イ銅像再建ノ経過ヲ記シテ後世ニ遺ス次第デアル |
倉田百三福岡寓居の記 『出家とその弟子』を大正6年に出版した倉田百三は、翌年夏病気療養のため久保猪之吉博士を頼って、妻晴子・長男地三と福岡へ来て、一二転居の後、今川金龍寺境内の貝原益軒記念堂(後の金龍幼稚園)に、同8年11月明石に移るまで1年餘仮寓した。『愛と認識との出発』はその前後の論文集で、戯曲『俊寛』はここで構想を練り執筆を続けた。
福岡佛教文化の会 |
このころの 己のこころの さやけさや くるあさあさを たゝにむかふる |