2023年広 島

猿猴橋〜頼山陽「郷に到る」〜
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広島市の猿猴川に道路橋が架かる。

猿猴橋(爆心地からの距離1,820m)


 猿猴橋は、毛利輝元が広島城築城を始めた天正17年(1589年)頃に木橋として架設され、大正15年(1926年)に現在のコンクリート橋に架け替えられました。

 その際、電飾や透かし彫りなど華麗な装飾が施されていましたが、昭和18年(1943年)戦時下の金属資源不足のため発せられた金属回収令により、これらの装飾品が全て供出され、石の欄干と親柱に取り換えられました。

 昭和20年(1945年)の原子爆弾投下では、欄干の一部が破損する被害を受けたものの、構造的な被害はわずかにとどまり、被災者の避難や救援活動に使われ、多くの命をつなぐ役割を担いました。

 平成27年(2015年)、被爆70周年の節目を迎えた広島市は、記念事業として猿猴橋の復元に取り組み、広島の復興を見届けてきた猿猴橋の一部を復元し、後世に伝えようとする地元の取り組みと連携して、平成28年(2016年)、架け替え当時の姿へ復元しました。

 猿猴橋には、大正15年(1926年)架設当時から使用されている花崗岩と、金属回収令により供出された装飾品の代替えである花崗岩が使用されていました。

 この姿は、「被爆に耐えた装飾的橋梁」として、平成23年度(2011年)に土木学会選奨土木遺産に認定されています。なお、認定時に授与された銘板を対岸に設置しています。

 これらの花崗岩は、被爆70周年記念事業として猿猴橋の復元工事を実施する際、補修等を行った上で最大限活用して復元しています。

 また、被爆の実相を後世に伝えるため、被爆時の姿をモニュメントとして保存しています。

広島市

「郷に到る」  頼山陽


猴子橋頭生暮煙  猴子橋頭暮煙生じ

已看両岸市燈懸  已に看る両岸市燈の懸かるを

同人莫恠吾行疾  同人恠(あや)しむ莫れ吾が行の疾きを

欲及萱堂未眠就  萱堂未だ眠りに就かざるに及ばんと欲す

(大意)

猿猴橋のたもとは夕もやが生じ、すでに両岸には街灯がともっているのが見える。

同行の人よ、私の足どりが早いのを怪しまないで欲しい。

母が眠りにつかないうちに家に着きたいのだ。

(解説)

文政8年(1825年)10月6日、頼山陽(当時46歳)が京都から広島に帰省し、広島城下東端の猿猴橋にさしかかった時に作った詩です。

広島にも様々な歴史がある。

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