2019年広 島

広島城〜加藤友三郎像〜
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広島市中区基町の広島城に行く。

「池田勇人君」の像があった。


内閣総理大臣池田勇人君

池田勇人君ハ明治三十二年竹原ニ生ル 京都帝國大学ヲ卒業シテ大蔵省ニ勤ム 性豪毅ニシテ誠実 善ク力ヲ尽シテ 其ノ任ヲ全ウス 主税局長 大蔵次官ヲ歴任 推サレテ衆議院議員ニ当選シ 直チニ大蔵大臣トシテ混乱セル戦後ノ財政ヲ処理ス 爾来常ニ台閣ニ列シ 昭和三十五年自由民主党総裁トナル而シテ内閣ヲ組織スルコト三度 寛容ト忍耐ヲ政治姿勢トシ 所得倍増政策ヲ推進シテ邦家ノ隆昌ヲ致ス 在職四年有余 恰モ東京オリンピック大成功ノ時遽ニ病厚クシテ大任ヲ辞ス 翌四十年薨去 正二位大勲位ヲ贈ラル 郷党茲ニ像ヲ建テテ 其ノ偉業ヲ讃ヘ敬仰ノ念ヲ新タニス

   昭和四十五年十二月

前尾繁三郎 撰

 昭和39年(1964年)10月25日、東京オリンピック閉会式の翌日に池田勇人は退陣を表明。

 昭和39年(1964年)11月9日、佐藤栄作は内閣総理大臣に就任、第1次佐藤内閣発足。

 昭和40年(1965年)8月13日、池田勇人死去。享年65。葬儀は自民党葬で執り行われた。

 昭和45年(1970年)12月3日、銅像建立。森野圓象(えんしょう)作。題字は吉田茂

 平成元年(1989年)11月8日、森野圓象(えんしょう)は85歳で死去。

 平成27年(2015年)8月13日、没後50年を機に新たに複製を設置。旧像は溶解処分。

裏御門跡


明治27年(1894年)6月10日、山陽鉄道の終着駅として広島駅開業。

広島大本営跡


 明治27年(1894年)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部が明治天皇の行在所とされ、ここに大本営が設けられた。

 明治天皇の広島滞在は、同年9月16日から翌年4月27日までの7か月余りに及んだ。 その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

   廣嶋行在所

空近くあまりまばゆき初日哉

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 春)

天守閣


史跡 広島城跡

別名 鯉城・在間城

形状 太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城

沿革

天正17年(1589年)、毛利輝元 築城工事に着手。

天正19年(1591年)、毛利輝元 入城。

慶長5年(1600年)、福島正則芸備49万石余を領し、翌年3月入城。

元和5年(1619年)、浅野長晟芸備42万石余を領し、8月入城。

明治4年(1871年)、廃藩置県により本丸内に広島県の役所を置く。

明治27年(1894年)、日清戦争時本丸内に大本営を置く。

   廣 嶋

春風や城あらはるゝ松の上

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 春)

 昭和11年(1936年)5月24日、吉井勇は広島ではからずも小杉放庵に邂逅、一緒に比治山、広島城などを見る。

 昭和20年(1945年)8月6日、原爆により天守閣・太鼓櫓・表門などすべて崩壊。

 昭和58年(1983年)、現在の天守閣再建。

 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。

史跡 広島城跡 二の丸跡

 この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。

 この郭は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。

 郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城400年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。

 広島市教育委員会

広島城遠景


昭和10年(1935年)、広島市の比治山公園に加藤友三郎像建立。上田直次作。

昭和18年(1933年)、金属供出により銅像は撤去された。

平成20年(2008年)8月、銅像再建。

中央公園に「加藤友三郎像」があった。


ワシントンに軍縮会議首席全権
内閣総理大臣正二位大勲位

加藤友三郎 功績碑

 加藤友三郎は、文久元年(1861年)2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として現在の広島市中区大手町で生まれた。修道学園の前身である藩校や海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務める。

 第一次世界大戦後、わが国は周辺防衛のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態となって財政は破綻の危機に至り、軍事費を削減してこの建て直しが迫られることとなった。

 欧米諸国も同様の状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にあった。このような状況のもとで大正10年(1921年)11月から翌年2月、ワシントンにおいて主要9か国による「海軍軍縮会議」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、アメリカから示されたわが国の海軍軍備を対米英比6割に縮減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印した。このとき軍部の強硬派に対して「国防は軍人の専有物ではない。国防は国家総動員の上に築かなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ国防力は高まらぬ」と述べている。

 大正11年(1922年)6月、軍縮会議後の施策推進最適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任、軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船縮減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのである。軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回したほか、国民生活に直結する諸政策をも進めるなどの業績を残した。

 総理大臣在任中の大正12年(1923年)8月24日病死、享年63。

内閣総理大臣加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え没後85周年にあたり銅像を復元した。

   平成20年(2008年)8月24日

加藤友三郎銅像復元委員会 会長 碓井静照

東京都港区の青山霊園に墓碑がある。

広島にも様々な歴史があるものだ。

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