軍隊の野外における演習は、主とするところ、岨険を跋し、もって戦術を講じ、寒暑を冒し、もって筋骨を練るにあり。 この如くならざれば、戦時の用に供するに足らず。青森衛戍の如き毎冬雪中行軍の挙あるは、其の一なり。 去歳一月二三日、第二大隊将卒二百余人田代に赴く。たまたま大風雪三昼夜に連なり、全隊路を失い飢凍して斃者相次ぐ、営中の将士その期を過ぐるも還らざるを怪しみ、卒を発してこれを遂う。天地陰晦、漠として踪跡を知らず。一人積雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり、始めて、その隊の動静を詳にするを得たり。 隊に大いに捜索を行い、堀りて大尉神成文吉以下一九九人の屍を得たり。その幸にして生を得る者、大隊長少佐、山口ユ等十有一人のみ、事、皇上に聞す、震悼して、待臣を特派せられ弔慰優渥なり。また有司に勅して厚くその家恤まる。 中外の官民亦貲二〇余万を損て、もって賑恤の資となす。死者また瞑すべし。 然りといえども均しく之の死するや、砲煙弾雨の下に斃れずして、風饕雪虐の間に殞す。豈に悼まざらんや、是において有志の諸将校と相謀り碑を八甲田山麓馬立場の邱に建て、もってその事を紀し、且つ、後日行軍する者の標識となすという。 明治三六年 歳は癸卯に在り六月
陸軍大臣陸軍中将 正四位勲一等功三級 寺内正毅 撰 |
秋田の一友人も加はりて、馬を連ねたるは、都合四人也。外に鹿内辰五郎氏徒歩して一行を導く。夏にても、二十年前の雪中の惨事を偲ばざるを得ず。況んや峯上に雪あるをや。況んや中腹に遭難記念の銅像見ゆるをや。況んや鹿内氏は当時捜索隊に加はりたる兵士にして、その目撃したる惨状を語り出すをや。
「雪の八甲田」(二十年前の惨死) |
この記念碑は、世界の山岳遭難史上犠牲者の多いことで例を見ない青森歩兵第五連隊第二大隊の雪中行軍の事実を後世に伝えるものである。 制作者大熊氏広は、明治から昭和初期にかけて活躍した洋風彫刻の第一人者であり、我が国を代表する彫刻家である。 本作品は、的確な技量に支えられ、細部に至るまでその時代考証は、確かであり、作者の作品の中でも、最も彫刻性が高く、記念碑彫刻としての観点からも日本有数の傑作群に数えられている。全体像が力と気品に溢れ満ちている。台座とのバランスも見事であり、八甲田山を背にしての立像は、この上ない景観となっている。 青森市では、歴史的にも芸術的にも高い価値を有しているものとして、文化財に指定するものである。 |