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東京大学医学部〜ベルツ先生〜

文京区本郷7丁目に東京大学医学部がある。


明治14年(1881年)7月4日、森鴎外は19歳で本科を卒業。

ベルツの像スクリツバの像初桜

『雪片』

医学部の片隅にベルツ先生、スクリバ先生の胸像がある。


明治35年(1902年)4月3日、渋沢栄一像除幕式。長沼守敬(もりよし)制作。

明治40年(1907年)4月4日、ベルツ先生、スクリバ先生の胸像設置。

昭和17年(1942年)7月18日、長沼守敬没。

 戦時中軍需資材として供出されることになり、大学ではセメントでコピーを作ったが、供出前に戦争が終わりブロンズの像は残った。そこで大学はセメントの像を草津町に贈った。

 東京大學名譽教師ベルツ先生(在職1876−1902)、同スクリバ先生(在職1881−1901)は本學部創始のころ20年以上にわたって、それぞれ内科學外科學を教授指導し、わが國近代醫學の真の基礎を築いた恩人である。

 この碑は両先生の功績を記念するため、明治40年4月4日(1907年)建設せられたが、このたび医學部總合中央館の新築にともなって、昭和36年11月3日(1961年)原位置の北方約60メートルのこの地点に移した。

東京大學醫學部

エルウィン・フォン・ベルツ

Erwin von Baelz

(1849〜1913)

南ドイツのビーティハイムで生まれる。チュビンゲン大学医学部に入学し、ライプチヒ大学医学部を最優秀の成績で卒業した。ライプチヒ大学病院に入院した第1回医学留学生の相良元貞を診察したことがきっかけとなり、明治9年に下谷和泉橋時代の東京医学校に招聘された。 明治35年までの26年間、内科学の教育と診療にあたり、わが国の内科学の礎を築いた。明治14年以後は東京大学医学部の外国人教師の主任を務めた。ツツガムシ病、肺ジストマ、温泉療法、人類学、民族学などを研究し、世界で最初に肺吸虫卵を発見した。退任後は侍医を務め、明治38年に帰国した。『ベルツ日記』は日本の近代化を記録した歴史的資料として知られる。大正2年に大動脈瘤により没した。

胸像の左手に水原秋桜子の句碑があった。



胸像をぬらす日本の花の雨

昭和36年(1961年)、秋桜子69歳の句。第16歌集『晩華』所収。

 昭和54年(1979年)4月23日、日本国際医学協会理事長石橋長英・日本医学会会長熊谷洋建立。

石橋長英は獨協医科大学初代学長。

平成2年(1990年)9月25日、逝去。享年97歳。

『秋櫻子句碑巡礼』(久野治)によれば、第84番目の秋桜子句碑である。

 昭和39年(1964年)、阿波野青畝はベルツのスクリバ先生の記念像を見ている。

ベルツ、スクリツパ並びて日脚伸びにけり

      東大構内。内科のベルツと外科のス
      クリツパ両医学者の記念像がある。

『甲子園』

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