2013年山 口

高田公園〜碑巡り〜
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山口市湯田温泉に高田公園がある。


 井上馨候の生誕地で井上公園と呼ばれていたが、地名をとって高田公園となった。

高田公園に「何遠亭跡」の碑があった。


七卿落のとき、井上家の離れを増築し、三条実美らの宿舎にあてられた所で、これを何遠亭と呼びました。

何遠亭は全国の勤皇の志士たちが出入りし、維新回天のための相談が行なわれたところです。「何遠」の語は「何の遠きことか之れ有らん」の論語からとったものです。

 「七卿落」は文久3年(1863年)、8月18日の政変で三条実美ら七卿が京都から長州に落ちのびたこと。

平成25年(2013年)は七卿落ちから150年にあたる。

井上馨銅像


大正元年(1912年)12月25日、除幕式。

井上馨

公、長門藩井上光享の次男。此地に生る。通稱聞多、後に馨と称す。幕末外患至るや、国事に奔走し、同志と横浜を發し、喜望峰を廻りて英国に渡る。英米蘭佛の下関砲撃をなすと聴き、急遽帰國し藩政の改革に當り、保守派のために袖解橋に遭難し、僅に死を免る。明治維新の創業以来、終始内外の機務に参劃し、特に産業の振興に盡し、國運を打開して元勲と仰がる。常に勇決、進んで難に當り、忠忱にして能く節を効し、大正4年9月1日歿す。歳81。

井上公四十年記念會會長鮎川義介誌

 鮎川義介は日産コンツェルンの創始者。明治43年(1910年)、井上馨の援助で戸畑鋳物株式会社を設立。

井上馨候

 天保6年(1835年)12月、萩藩士井上五郎三郎の次男として、この地で生まれました。俊才を認められ藩公の小姓役となり、幕末国事多難な折、同志らと共に国事に奔走、大義を唱えました。伊藤博文らと共に英国に留学し、帰国後藩論沸騰の際に当り、市内中讃井で反対派の壮士数名に斬り付けられ瀕死の重傷を負いましたが、名医所郁太郎の手当てによりあやうく一命をとりとめました。やがて藩内で正義派が大勢を占めるようになり、四境戦争、鳥羽伏見の役に出陣するなど、明治維新の大業推進に貢献しました。

 明治維新後は新政府に仕え大阪造幣寮を創立、ついで民部大輔、大蔵大輔となり廃藩置県を成し遂げました。明治18年内閣制度が成立、はじめての外務大臣となり、その後、農商務、内務、大蔵大臣などを歴任。後、実業界に転じて大いに力を尽くしました。

 晩年は元老として政財界に重要な地位を占め、明治40年(1907年)功により侯爵となり、大正4年(1915年)興津で没しました。

「山頭火翁句碑」があった。


ほろほろ酔うてこの葉ふる

後日、あらためて撮った写真である。

 『草木塔』に「昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。」とある。

 酒を愛し、句を求めて半生を行乞行脚の旅に過ごした種田山頭火が、ここから約500米東にある龍泉寺上隣の民家を離れ、4畳1間に小郡・其中庵から移ったのは、昭和13年11月下旬で、風来居と名付け10か月余り住みました。

 この碑は昭和37年11月3日、文化の日を記念し、友人の大山澄太らの発起により建立されました。句は「ほろほろ酔うてこの葉ふる」と書いてあり、碑文は山頭火の自筆を写したものです。

 山頭火は、明治15年(1882年)防府市に生れ、昭和14年出家、昭和15年10月11日松山市で没しました。

 『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、7番目の山頭火句碑である。

 かねてこのゆかりの地に句碑を建てたらという案のあったところへ、昭和三十七年九月五日、大山澄太先生から申し出があり、山口市は一も二もなく承諾。兼行恵雄市長を会長に「種田山頭火句碑建立委員会」を結成した。

 最初句碑は「雪ふるひとりひとり行く」であったが、酒の句碑こそ湯田温泉にふさわしいということで変更された。十月十九日、大山先生から句を彫った碑石が寄贈された。台座据付け工事費と除幕式の諸費用あわせて十万円を地元が負担した。

『山頭火句碑集』

中原中也の詩碑もあった。


これが私の故郷だ

さやかに風も吹いてゐる

あゝおまへは何をして来たのだと……

吹き来る風が私に云ふ。

中原中也の詩碑

   帰郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
      縁の下では蜘蛛の巣が
      心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
      路傍の草影が
      あどけない愁みをする

これが私の故郷だ
さやかに風も吹いてゐる
      心置なく泣かれよと
      年増婦の低い声もする

あゝおまへは何をして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ。

解  説

 詩碑の詩句は、『山羊の歌』にある「帰郷」から、中也と親交のあった評論家の小林秀雄と小説家の大岡昇平が選んだ。碑石は徳山市門熊産の黒御影。碑のデザインは新鋭の石彫家、志水晴児が設計し自らノミを振るった。除幕式は昭和40年(1965年)6月4日に行われ、小林、大岡のほか同じく中也と親交のあった評論家の河上徹太郎、小説家・評論家の今日出海らも出席した。

中原中也
(1907・4・29〜1937・10・22)

 山口市湯田温泉に生まれる。小学校の頃から短歌を詠み、文学への情熱は山口の地で育まれた。16歳で家族を離れ、京都、東京へと移り、詩人としての道を歩む。フランス詩から多くを学び、ランポーの訳詩集も刊行。1934年に第1詩集『山羊の歌』を出版し、詩壇の評価を得る。晩年鎌倉へ移り、山口への帰郷を望みつつ30年の生涯を閉じた。第2詩集『在りし日の歌』は死語出版される。中也の詩は多くの人々に愛誦され生誕の地には中原中也記念館が建てられた。

中原中也が湯田温泉に生まれたとは知らなかった。

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