2021年高 知

高知城〜山内一豊公之像〜
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 昭和14年(1939年)11月10日、種田山頭火は高知城で山内一豊の銅像を見たようだ。

   高知城

お城晴れわたる蔦紅葉

銅像おごそか落つる葉もなく

『四国遍路日記』

山内一豊公之像


山内一豊の銅像

 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545年)生まれ。13歳の時尾張の国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1573年)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590年)小田原攻めののち遠州(静岡県)掛川5万石を領した。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605年)9月20日没。61歳。

 この銅像は大正2年(1913年)に建設された銅像の原型をもとにして平成8年(1996年)9月20日、再建除幕された。

原型は本山白雲作。戦時下に金属供出

追手門と天守閣


山内一豊の妻の銅像


二ノ丸から天守を見る。


三ノ丸石垣


 三ノ丸は、慶長6年(1601年)の築城から10年を要して最後に完成した。面積は4,641u、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆が安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三の丸には1,815uの壮大な御殿が建築されていた。

三ノ丸から天守を見上げる。


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