法然寺は、法然上人ゆかりの生福寺を高松藩主松平ョ重公が仏生山に移築し松平家の菩提寺としたものです。法然上人自作の阿弥陀仏と上人のご真影を本堂に安置、廟台を山頂に築いて般若台と名づけ檀家に来迎堂が設けられました。 |
総門は、法然寺の表門で、ここから法然寺の境内がはじまります。法然寺が建てられた当初の様子を描いている絵図には、「柵門」と記されています。 絵図によると、かつては、門の南側に番所と接待屋が設けられていました。接待屋は、藩主の葬儀が行われる際に、家臣に付き従って来た又者(家臣の家臣)が待機する場所でもありました。門から少し離れたところに「下馬札」があり、馬に乗って来た者に下りることをうながし、特別な場所であることを示していました。門の北側には、石垣を築いた上に柵と築地塀が設けられ、境内と外を区切っていました。 総門のほか、境内への入り口として、庫裡の裏手にあたる北側に設けられた裏門、平池の北側に設けられた南門などがありました。 |
松平ョ重は法然寺造営工事中に夢のお告げを受け、山頂の般若台から仏舎利を掘り出しました。このため、山号を仏生山とし、ョ重は仏舎利を納めるための五重塔の建設を計画しました。『法然寺古図』には般若台の北側に塔の予定地が描かれています。 ョ重の存命中にこの計画が実現されることはありませんでしたが、平成23年(2011年)が法然上人の没後800年大遠忌にあたることから、その記念事業として五重塔の建設工事が実施され完成しました。 全国の五重塔などを参考にして設計され、木造伝統様式に現代技術を加えた和様・総桧造り・本瓦葺きの五重塔であり、塔の基壇上の高さは法然上人没後800年にちなみ、800寸(24.24メートル)です。塔の初重には心柱を中心として四方を柱が取り囲み、方形の空間が作り出され、この空間に仏舎利納められています。 |
文殊楼の名前は、下層正面の天井近くに仏壇をつくって、仏教の智を象徴する文殊菩薩の小さな像をまつっていたことに由来します。二層の建物の上層部分に梵鐘が吊ってあることから「鐘楼門」とも呼ばれています。 梵鐘は創建当初の鐘が傷んだため、江戸時代に一度造り直されています。その後、第二次世界大戦中の金属供出に提供されたため、昭和24年(1949年)、改めて梵鐘が鋳造され、現在も使用されています。鐘の設計は梵鐘研究の第一人者であった青木平八郎博士が描く「平和の鳩」、歌人吉井勇の歌が刻まれています。 下層の両脇に設けられた金剛柵の中には、仏教を守護する梵天・帝釈天の立像が納められています。 |