『奥の細道』北 陸


〜左内公園〜

福井市左内町に左内公園がある。


福井の町は霧の中。

橋本左内先生像


 安政6年(1859年)、橋本左内は安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。享年26。

南千住回向院に墓がある。

芭蕉宿泊地洞哉宅跡


 松尾芭蕉が、『おくの細道』の旅の途中、福井の俳人洞哉を訪れたのは、元禄2年8月11日(1689年:陽暦9月24日)のことだといわれます。

 この洞哉という人がどのような人物であったかはあまり知られていません。芭蕉の死後約100年後の寛政4年(1792年)、福井の俳人達が百回忌の法会を営みました。その時の記録の中に、「洞哉という人は、貧しい暮しをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」(祐阿『道の恩』寛政4年)という話があります。

 このような人柄が芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち、連れ立って敦賀へと向っています。

福井市

 8月14日、中秋の名月の前日に芭蕉は神戸洞哉とともに敦賀に入り出雲屋に泊まる。

洞哉と左内町

 洞哉は松尾芭蕉の紀行文『おくの細道』に福井の俳人等栽として描かれた人物です。洞哉については、江戸時代の記録等から同書で書かれた等栽の他、等哉、可卿等の俳号をもつことが知られているのみで、その人物像は全くわかっていません。ここでは、洞哉唯一の直筆とされる敦賀市本隆寺蔵の書に記された「洞哉」に統一して表わすことにしました。

 洞哉の住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、俳人石川銀栄子氏の研究から、洞哉が芭蕉の枕にと木片をかりたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかりました。

 芭蕉は洞哉の家をこのように書き表わしました。

「市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕皃、へちまのはえかゝりて、鶏頭、はゝ木ゝに戸ぼそをかくす。…」

『おくの細道』

芭蕉の句碑


名月の見所問ん旅寝せむ

出典は「芭蕉翁月一夜十五句」(荊口句帖)。

   福井洞哉子をさそふ

名月の見所問ん旅寝せん

 元禄2年(1689年)8月14日、芭蕉は敦賀で一夜に15句詠んだと伝えられている。

昭和56年(1981)8月、石橋緑泥建立。

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