2023年岡 山

誕生寺〜旅立ちの法然さま〜
indexにもどる

津山線岡山駅


誕生寺駅下車。

誕生寺之道


歴史資料 誕生寺之道 道標

熊谷入道 念佛橋の由来

 浄土宗宗祖・法然上人の弟子となった源氏の荒武者熊谷次郎直実は建久4年(1193年)法然上人の命を受け、上人自ら刻まれた御木造(現在の誕生寺のご本尊)をはるばる京の都より背負い弟子数人と共に法然上人誕生の地にたどり着いた。

 この橋より上人の生家を目の前にした際、到着の喜びとあまりの嬉しさに感激に泣し、この橋の上で天地も裂けんばかりに高声(こうしょう)念仏を唱え続けたと伝えられる。

 それ以後、この橋は熊谷入道の念佛橋とい呼ばれるようになった。

久米南町教育委員会
久米南町文化財保護委員会

栃社山(とちこそさん)誕生寺は、建久4年(1193年)法力房蓮生(れんせい)(熊谷直実)が、浄土門念仏元祖法然上人誕生(1133年)の地に、師法然上人の御徳を仰ぎ上人誕生の旧邸を寺院に改めたものです。また、蓮生は、この寺で亡き上人のご両親の追善供養のため、五年間の常行念仏を修したといわれています。以来八百数拾年の星霜を経て、境内には法然上人のゆかりの公孫樹、片目川、産湯の井戸などがあり、また法然上人二十五霊場第一番札所となっています。両幡の天降ります椋の木は世々に朽ちせぬ法の師の跡(熊谷入道詠)

環境省・岡山県

御影堂(本堂)


国指定重要文化財

 御影堂の位置はかつて850年前、美作の豪族、漆間時国公、秦氏君夫婦の館であった。

 時国公は久米の押領使(その地方の治安の維持を任務とした役)で長承2年の4月7日(1133年)に二人の間に、のち浄土門開祖、法然上人(幼名勢至丸)が御誕生され、上人が幼少9歳まで御両親とすごされた場所である。

 開山は上人の弟子、熊谷蓮生法師で現在の御影堂は元禄8年の3度目の再建である。

 御本尊は法然上人43才の御自作像で、熊谷入道が上人61才の時、師の命により上人御両親の墓前に安置されたもので、のちの代、後光と蓮台をそえ当山の御本尊として今日に至っている。

平成10年(1998年)、修築。

旅立ちの法然さま


 昭和49年(1974年)6月9日、浄土宗開宗800年を讃えて浄土宗保育協会が建立。山田良定製作。

ほうねんさまの旅立ち

ふたたびまみえる日のなかった母のいるこの地に別れをつげる幼名せいしまるさま。やがて淨土のおしえをひらく門出ともなったりりしい旅立ちのおすがたである。いまそのおしえをうけつぐことを誓ったこどもたちの名をこの台座の下に納め淨土宗開宗800年を讃える。

 昭和58年(1983年)11月、芭蕉翁生誕340年を記念して伊賀町・伊賀町芭蕉翁顕彰会は芭蕉像を建立。山田良定作。

平成21年(2009年)10月1日、二本松駅に「ほんとの空」建立。橋本賢太郎制作。

平成22年(2010年)10月1日、二本松少年隊士像「霞城の太刀風」建立。

祈 り


「秦氏さま」ご尊像建立によせて

 宗祖法然上人800年大遠忌に際し、浄土宗寺庭婦人会では、法然上人御母君「秦氏さま」のご尊像をここ誕生寺に建立し、改めてご遺徳を偲び末永く顕彰申し上げることと致しました。秦氏さまの勢至丸様に寄せられた深い愛と比叡山に向かってのひたすらな「祈り」のお姿を道標とし、願わくばこの殺伐とした社会が潤いある豊かな報土とならんことを切望いたします。

平成22年(2010年)11月12日、浄土宗寺庭婦人会建立。橋本健太郎謹作。

令和3年(2021年)1月31日、橋本健太郎は90歳で没。

守護大仏


 かつて天正6年(1578年)岡山城主宇喜多直家によって御影堂(本堂)が焼き討ちにあった。再びこの様な法難がおこらない様に「誕生寺守護仏」として建立され、延享2年(1745年)に開眼。平成26年に法然上人800年大遠忌記念浄業として勢至堂境内より現在の位置に遷座された。

 大仏制作者は梵鐘職人の名人大谷相模掾藤原正次である。本大仏は江戸期鋳金仏中の最優秀作として戦時金属供出にも却って保存方を命ぜられたほどであり、名工達人の大仏として岡山県下唯一無二の存在である。

 元禄5年(1692年)8月、太田近江大椽(だいじょう)藤原正次は浅草寺の時の鐘を改鋳。

公孫樹


 久安3年(1147年)15歳の勢至丸(法然上人)は、比叡山に旅立たれる際、高円菩提寺より杖とされた銀杏の枝をこの地にさされたところ生着繁茂し、根が上に伸び「逆木(さかき)の公孫樹」ともいわれる。

(岡山県指定天然記念物)

瑞應殿


平成15年(2003年)、再建。

旧阿弥陀堂である。

勢至堂へ。

道標に従って笛吹川歌碑公園へ。

2023年岡 山