茂吉の歌
茂吉歌碑

『つゆじも』 ・ 『白桃』
明治39年(1906年)
明治41年(1908年)
大正2年(1913年)
大正3年(1914年)
大正4年(1915年)
大正5年(1916年)
大正6年(1917年)
大正14年(1925年)
大正15年(1926年)
二つ居りて啼くこゑきけば相呼ばふ鳥が音かなし山の月夜に
月よみの光くまなき山中に佛法僧といふ鳥啼けり
高遠
十一月八日信濃國高遠町に繪島の墓を弔ふ
あはれなる流されびとの手弱女(たわやめ)は媼(おうな)となりてここに果てにし
みすずかる信濃の國の高遠にかなしき墓を吾も見つるかも
『ともしび』
昭和2年(1927年)
昭和3年(1928年)
昭和4年(1929年)
昭和5年(1930年)
立石寺の蝉を聞かむと來しかども雨降り蝉は鳴くこともなし
南谷ふりにし跡にわが來ればかすかにのこる河骨の花
おのづから杉の落葉はつもりつつ南谷道足をうづむも
いづかなる蘆(よし)の茂りも年を經て見る人もなしここ南谷
いにしへの芭蕉翁のこの山に書きのこしたる三日月の發句
南谷におもかげ遺(のこ)る池の水時を過ぎたる蛙のこゑす
最上川
七月二十四日午後五時十五分狩川驛發にて歸途にむかふ。同
日上山山城屋宿泊
最上川水(み)かさまさりてけふもかもわがゆく汽車の方よりながる
うつせみのわが身に近く最上川川面(かはのも)ひくしみなぎり流る
芭蕉も元禄二年このあたり舟にて過ぎけむか
古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
高野山
八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六回
安居會を開く
ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を超えにき
ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野の山に水おちたぎつ
紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける
高野山あかつきがたの鉾杉に狭霧は立ちぬ秋といはぬに
『たかはら』
昭和6年(1931年)
瑞巌寺
ちちははが幾たび話したまひけるほとけの寺にわれは來にけり
きさらぎはいまだも寒し雪のまにはつかに見ゆる砂は氷りぬ
京都醍醐寺 帝釋天像
いにしへは尊かりけりひれふしてこの白き象もつひにきざみぬ
楢山の雨は晴れつつ曇る日を殺生石に死ぬ鳥を見し
窿應上人
昭和六年八月十日曉天窿應上人近江蓮華寺に遷化したまふ。
御年六十九にいましき
昭和7年(1918年)
朝寒をあはれとおもひ吾汽車のしめし玻璃窓(はりど)に顔を寄せつつ
層雲峡
八月二十三日、層雲峡に遊ぶ。守谷富太郎、高橋四郎兵衛、
石本米藏同行せり。ゆふぐれてひと夜やどりぬ
朝日岳十勝岳見ゆみんなみに石狩岳はかた寄りにけり
宋人がさびしみしごと山のうへより音の聞こゆる瀧見つつをり
釧路途上
帶廣を汽車いでてよりややしばし東のかたに虹たちにけり
北國の釧路の町はともしびもあかあかとつきにぎはふところ
ぬばたまの夜のくらきにとどろける釧路の濱もわが見つるかも
阿寒湖行
秋にむかふ野をよろしみとあらくさの秀(ひい)づるかぎり秀(ひい)でつるもの
舟に乘りて阿寒の湖を漕ぎためば思ひも愛(かな)しこの縁(えにし)はや
阿寒湖の島の木立に蝉のこゑ聞こえつつ居りときどき中絶(とだ)ゆ
湖(うみ)ぞこに毬藻の生ふるありさまを見むと思ひて顔を近づく
一たびは見むと思ひてあひ見つる雄阿寒の山雌阿寒の山
雌阿寒の火を吹く山に人おほくのぼりて行くにわれは行かぬに
阿寒川のながるる谿を見下せり二たびは來むわれならなくに
支笏湖
七たりが支笏湖に來て立ちながら見て居たりけり降りみだる雨
白雲のひろごりはてしとばかりに冷たき雨は湖に降る
登別
登別にひと夜やどりて寄りあへる湯治の客のなかに親しむ
登別に飼ひゐし熊を見て居れば山のままなる熊しおもほゆ
九月三日登別温泉をたち、登別驛九時七分發、長萬部行の汽
車に乘る。車房雜吟。大沼公園を見、函館に着く
馬も牛も雨に濡れつつゐる見れば長雨ふりて秋立つらむか
白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ
禮文華に連續したる隧道(とんねる)をやうやく出でて静狩のうみ
片がはに草木生ひつつ駒ヶ嶽の裾野は引きて海に入る見ゆ
駒ヶ嶽の裾野は引きてひろごれば柏の木立幾里つづきぬ
湯川即時
九月四日高橋四郎兵衛とともに函館市外湯川温泉にやどりぬ。
武藤善友君等と會す。雨大に降る
しほはゆき湯のたぎり湧く音ききて海まぢかしとおもほえなくに
十和田湖
九月五日、飛鸞丸に乘り函館出帆、青森著。汽車にて古間木。
驛下車、三本木より乘合自動車にて十和田にむかふ。六日午。
前十和田にあり
奥入瀬の川浪しろくながるるを幾時か見て國のさかひ越ゆ
この谿にわきかへりくる白浪を見つつ飽きかねどわれは去りゆく
あさ明けて十和田のうみを弟ともとほり居てり母をしぞおもふ
あさ明けしうみの低空をひとしきりくびをのばして鵜のわたる見ゆ
東谷よりひとときにしてあふれくるさ霧は湖のうへにたゆたふ
『石泉』
昭和10年(1935年)
九月十九日
子規忌にひとり來りて御墓にまうづ
大龍寺の門を入りつつ左手にまがりて行きぬ君がおくつき
この墓に水をそそぎて「いつまでも苔はむさず」といひし詞の大人(うし)はも
『曉紅』
昭和11年(1936年)
木曾福島
十二年ぶりに來りし木曾の町におどおどとして講演を了(おは)る
駒ヶ嶽見えそめけるを背後(そがひ)にし小さな汽車は峡(かひ)に入りゆく
上松の驛いでてよりいつしかも傾く天(あま)つ日に吾等はむかふ
寢覺の床
渦ごもり巖垣淵(いはがきぶち)のなかに住む魚をしおもふ心しづけさ
白き巖(いは)のひまにたたふる深淵の湧きかへるものを見すぐしかねつ
四年前わが見たるごと苔のみづ流れゐたれば足をとどめつ
白き湯をいくたびも浴みこもりたるこの部屋いでてわれ行かむとす
『曉紅』
昭和12年(1937年)
松山道後
城山に高くのぼりて日にきらふ古ぐに伊豫はわれのまにまに
正宗寺の墓にまうでて色あせし布團地も見つ君生けるがに
琴平より高砂加古
金毘羅の荒ぶる神をみちのくの穉(をさな)き吾に聞かせし母よ
金毘羅の神います山晴れたるにあへぎて登り忽ちくだる
湊より淡路の島を横ぎれば鳴門うづしほ見ることもなし
酒宴(さかもり)にもろごゑ響き洲本なる旅の宿りに一夜いを寐ず
『寒雲』
腦病院火事としいへば背筋よりわれ自らの燃ゆらむとせり
昭和13年(1938年)
金時山
一方(ひとかた)は高萱にして一かたの木立のなだれ粗くあらしも
現なる眼下(ました)とほきを火をあげし山のなごりと見つるけふかも
霧うごくとばかりに香ごもりてあやしと思ふ谷あひ行くも
をやみなき雲に觸りさびしきまでに箱根の峡を見おろしにけり
身みづからこの山の上に居りにけり近きごと天つ日わたり時ゆくや
十一月六日電報來
山西のあたりにてか戦死せる中尉をおもひ一夜ねむれず
むなさわぎせしこと一再にとどまらず九月以來通信も斷えて居りにき
あやしくも動悸してくる暗黒を救はむとして燈をともす
十月二十七日山西省絳縣薫封村にて陸軍中尉山口隆一戰死す
漢口陥ちてとどろきし日に山西の小さき村に戰死をしたり
山口隆一
官報にて吾は知れども自らの中尉になりし手紙まだ來ず
『寒雲』
昭和14年(1939年)
歌碑行
いただきに寂しくたてる歌碑見むと藏王の山を息あへぎのぼる
七月八日歌碑を見むと藏王山に登る同行岡本信二郎、河野
與一、河野多麻、結城哀草果、高橋四郎兵衛の諸氏
歌碑のまへにわれは來りて時のまは言(こと)ぞ絶えたるあはれ高山や
わが歌碑のたてる藏王につひにのぼりけふの一日をながく思はむ
雜歌控
賀壽
わが父の兄の治右衛門伯父こそは九十二歳の老に入りけれ
大君もほめたまひたる伯父のきみはいのち長くて國の寶ぞ
甥茂吉五十八歳にしてよろこびぬ九十二歳の伯父治右衛門を
餅あまたくひ飽かぬてふ伯父のきみを今壽老人とわれ申しける
金瓶が金谷のころに生れたる伯父をおもへば年ふりにけり
『寒雲』
昭和14年(1939年)10月
霧島林田温泉
この山にわが著きぬれば暮れかかる櫻島より煙は絶えつ
霧島の山のいで湯にあたたまり一夜を寢たり明日さへも寢む
大きなるこのしづけさや高千穂の峯の総べたるあまつゆふぐれ
南なる開聞岳の暮れゆきて暫くわれは寄りどころなし
霧島神宮・参拜歩道
御前三時霧島山の大神にまうでむとして眼をあらふ
霧島の神の社にぬかづくとあかとき闇をい往く五人(いつたり)
磯島津邸
たかむらは青き光を放つとぞ知りぬるわれはしばし離れつ
あるときは潮の波も照りかへすここのみ園の石のうへのつゆ
『のぼり路』
昭和15年(1940年)
殿臺
成東町の殿臺といふところ元治元年君は生れき
左千夫先生生れたまひし家に來て疊の上に暫し立ちけり
温海
夜をこめて朝市たてば男女(をとこをみな)ひとごゑぞする湯の里ここは
朝々に立つ市ありて紫ににほへる木通(あけび)の實さへつらなむ
『のぼり路』
昭和16年(1941年)
相川の金鑛山のひびきをも眞近に聞きてのぼり來りぬ
いつくしき五重の塔の立てる見つ佐渡のこころは淺からなくに
彌彦山
ほのぐらき山の朝路ひとりゆく七曲ともいひをる道を 四月二十九日
杉山に松はらまじりしげりたる彌彦のやまをめぐりてのぼる
『霜』
昭和17年(1942年)
をさなくて見しごと峯のとがりをる三吉山は見れども飽かず
『霜』
昭和19年(1944年)
一月九日、山口隆爾中尉山西にて陣歿す
君が兄のことをしのべば山西にはらから二人いのちをはりき
「短歌拾遺」(昭和19年)
昭和20年(1945年)
上ノ山・金瓶雜歌
昭和二十年二月十六日夜、上野驛を立ち、十七日上ノ山著、
上ノ山の裏山あたりを歩きて作歌、金瓶村に移る。三月六日
上ノ山發、仙山線、常磐線、三月七日東京著。四月十日東京
を發ち十一日上ノ山著。十四日より金瓶移居
松山に杉山つづき雪ふればただにうつきしみれど飽かなくに
南より止まずうごける白雲は山脈(やまなみ)のうへに即きて離れず
わきいづる音のきこゆる弘法水雪あゆみ來て我心なごむ
疎開漫吟(一)
昭和二十年四月十四日より、金瓶村齋藤十右衛門方に移り住
む。をりをりの歌
かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌(たふさぎ)をみづから洗ふ
藏王山その全けきを大君は明治十四年あふぎたまひき
夏されば雪消わたりて高高とあかがねいろの蔵王の山
白萩は寶泉寺の庭に咲きみだれ餓鬼にほどこすけふはやも過ぐ
松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき
遠のひびき
秋風の遠のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど早く寐(いね)にき
ひむがしに直(ただ)にい向ふ岡に上り藏王の山を目守りてくだる
殘生
すでにして藏王の山の眞白きを心だらひにふりさけむとす
『小園』
昭和21年(1946年)
昭和22年(1947年)
雪しろき裾野の斷片見ゆるのみ四月一日(いちにち)鳥海くもる
殘雪は砂丘のそばに見えをりて酒田のうみに強風ふけり
最上川海に入らむと風をいたみうなじほの浪とまじはる音す
おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする
おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする
三倉鼻に上陸すれば暖し野のすかんぽも皆丈たかく
酒田
魚くひて安らかなりし朝めざめ藤井康夫の庭に下りたつ 十月二十一日
安種亭のことをおもひて現(うつつ)なる港に近き道のぼりけり
下の山は今の本町三丁目不玉のあとといへば戀(こほ)しも
酒田なる伊東不玉のあとどころ今は本町三丁目にて 「酒田」補遺
象潟
象潟の蚶滿禪寺も一たびは燃えぬと聞きてものをこそ思へ
あかあかと鳥海山の火を吹きし享和元年われはおもほゆ
『白き山』
昭和23年(1948年)
昭和25年(1950年)
