「寝覚の床」は、木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月にわたって浸食してできたもので国の史跡名勝天然記念物に指定されています。
岩盤に見られる水平方向と垂直方向に発達した方状節理(割れ目)やポットホール(欧穴・対岸の岩にあいた丸い穴)は、日本でも代表的なものです。
また、俳人正岡子規が「誠やここは天然の庭園にて……仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったこの絶景は、古くから浦島太郎の伝説の舞台としても有名です。龍宮城からもどった太郎は、諸国を旅してまわり、途中で立ちよった寝覚の床の美しさにひかれて、ここに住むようになりました。
ある日、昔を思い出して岩の上で玉手箱を開けてみたところ、中から出てきた煙とともに、見る見る太郎は300歳の老人になったと言い伝えられています。
岩上の松の間にある小さな祠は、その浦島太郎をまつる“浦島堂”です。
上松町 |
宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は松島遊覧の途上、寝覚の床を見ている。
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寐覚の里なる「寐覚の床」といへるは、さしもの木曾の川せまりて、岩こす浪の色目さまし。
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宝暦13年(1763年)4月19日、二日坊は寝覚の床を訪れている。
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臨川寺に浦嶋太郎か釣舟石、寝覚の床と名つくる嶋ハ、工ミになせる假山のことし
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安永8年(1779年)、横田柳几は筑紫からの帰途に寝覚の床で句を詠んでいる。
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信州寝覚の床にて
啼にけりねさめの床の片うつら
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安永9年(1780年)3月14日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、寝覚の床を訪れている。
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臨川寺の庭に寐覚の床を案内し見するに、雨の降いでゝわびし。
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享和2年(1802年)3月29日、太田南畝は臨川寺の童の案内で寝覚の床を見ている。
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寺の童の案内して、浦島寝覚の床を見よといふ。かの松のもとより岸にのぞみて見おろせば、大きなる岩あり。岩の上に松生ひしげりて、弁天の小社有。床岩・象岩・まないた岩・屏風岩・獅子岩・たゝみ岩等おのおのその形ありといへど、ことごとくは見わかず。
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文化13年(1816年)、十返舎一九は寝覚の床のことを書いている。
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此ところに臨川寺といふ景地あり。寐覺の床といふこれなり。むかし浦島太郎釣をたれし所なりと云傳ふ。
浦嶋もかゝるけしきの寐覺には小便よりもつりやたれけん
『岐曾街道續続膝栗毛』(七編下巻) |
明治26年(1893年)6月、正岡子規は臨川寺に到り寝覚の床を見ている。
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上松を過ぐれば程もなく寝覚の里なり。寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。其傍に押し立てたる岩を屏風岩、畳みあげたるを畳岩といふ。
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明治42年(1909年)5月8日、河東碧梧桐は臨川寺を訪れている。
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けさから九里余の道をあるいて、疲れた足を引きながら葵の紋のついた幕を潜って、臨川寺の庭にはいった。寐覚の床をを遙かの谿に瞰下ろしながら、岩も水も総てが直線趣味であるなどというておると、一人の小僧が如何にも馴れ馴れしげに、案内しましょうかというて来た。こういう寺には有り勝ちな、少し頓狂な然も悧発な小僧である。
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大正9年(1920年)5月27日、若山牧水は臨川寺を訪れた。
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此処のながめも夙うから写真などで見るところでは私の好みに近さうにも思はれなかつたので大した期待も持つて来なかつたが、先づそれが正しかつた。寝覚の床それ自身よりもそれを見下す臨川寺といふのゝ位置の方が面白からうと想像してゐたのも当つた。私は唯だその寺の庭さきから例の岩床と迫つた水の流れとを遠く見下したにとゞめて下には降りてゆかなかつた。降りて遊んでゐる旅人らしい人影は沢山に見えた。私と前後して上松の町から歩いて来た西洋人の夫婦らしい人もその寺の庭隅から急な坂を降りて行つた。
「木曽路」 |
昭和11年(1936年)10月、斎藤茂吉は寝覚の床を訪れている。
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寢覺の床
渦ごもり巖垣淵(いはがきぶち)のなかに住む魚をしおもふ心しづけさ
白き巖(いは)のひまにたたふる深淵の湧きかへるものを見すぐしかねつ
『曉紅』 |
昭和14年(1939年)5月7日、種田山頭火は臨川寺から寝覚の床を見ている。
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十一時、上松町に着く、そこから半里位で、名だゝる寝覚の床、臨川寺からの眺望はすぐれてゐる、娘の子が二人せつせといたどりを採つてゐた。
或るお休所、それはぐずぐずしてゐて、そして高すぎた、木曽の店は総じて商売振がまだるこい。
寝覚の床は清閑境であるが、鉄道線路がその上を走つてをり、前方に送電塔がそびえてゐるのはふさはしくない。
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