子規ゆかりの地

大竜寺

東京都北区田端の八幡坂通りに大龍寺という寺がある。


大龍寺


真言宗霊雲寺派の寺である。

 この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596〜1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781〜1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。

 この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。

北区教育委員会

 明治35年(1902年)9月19日未明、正岡子規歿す。21日、大龍寺に埋葬。

九月十九日。未明、正岡子規没す。

前日より枕頭にあり。碧梧桐、鼠骨に其死を報ずべく門を出づれば旧暦の月明かなり

 規逝くや十七日の月明に

二十一日。田端大龍寺に埋葬


子規居士墓所


秋山真之は子規庵から大竜寺へ。

 真之はそのあと三キロの道を歩き、田端の大竜寺まで行っている。
 田端までゆくと、坂がきつくなる。のぼりきって台地に出ると、あたりに人家はすくなく、はるか北に荒川の川岸が望まれ、上り下りする白帆が空と水に浮かんでまるで広重の絵をみるようであった。
 このあたりはケヤキやカヤの老樹が多く、とくに大竜寺の墓地の背後は鬱然としている。「あしが死ねばあの寺に埋めてくれ」と子規みずからがその菩提寺をえらんだこの寺は、本堂がひどく田舎びて十間四方の大きな茅(かや)ぶきであった。
 墓地は本堂のむかって左横にある。子規の墓はその奥にあった。
 「子規居士之墓」
 とみかげ石にきざまれた石碑があり、そのあたりの楓(かえで)がみごとに色づいていた。

『坂の上の雲』(雨の坂)

昭和9年(1934年)9月、三十三回忌・石板碑建立。

平成19年(2007年)1月、石板碑建替。



正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸に住ス父隼太(はやた)松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日歿ス享年三十□月給四十圓

 明治31年(1898年)7月13日、子規が友人河東銓(可全)に送った自分の墓誌銘。

   人、大龍寺のかへりなりとて來る

うち晴れし淋しさみずや獺祭忌


新涼や仏にともし奉る

      昭和三年九月十六日 子規忌句会。大龍寺。十八日、石井露
      月逝く。


 昭和10年(1935年)9月19日、斎藤茂吉は大龍寺を訪れ子規の墓参をしている。

   九月十九日

      子規忌にひとり來りて御墓にまうづ

大龍寺の門を入りつつ左手にまがりて行きぬ君がおくつき

この墓に水をそそぎて「いつまでも苔はむさず」といひし詞の大人(うし)はも

『曉紅』

 昭和33年(1958年)11月12日、高浜虚子は子規忌にひと月遅れて墓参を果した。

門松を立てゝ静かに世にあらん

子規墓参今年おくれし時雨かな

      十一月一二日 新年四句。

『七百五十句』

子規墓參今年おくれし時雨かな

子規忌には墓参を欠かさぬ父であつたが、三十三年の子規忌には病床にあつた。十月下旬一ト月遅れの墓参を果した。「これで安心した」といふ言葉が耳に残つてゐる。

『虚子一日一句』(星野立子編)

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