茂吉の歌

茂吉歌碑

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『つゆじも』

大正7年(1918年)

      齋藤茂吉送別歌會 大正六年十二月二十五日 東京青山茂吉宅に於て

わが住める家のいらかの白霜を見ずて行かむ日近づきにけり

聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞こゆ

      長崎歌會 大正七年十一月十一日 於齋藤茂吉宅 題「夜」

はやり風をおそれいましめてしぐれ來し淺夜の床に一人寢にける

大正8年(1919年)

      九月十日。天主堂

浦上天主堂無原罪サンタマリアの殿あるひは単純に御堂とぞいふ。

      九月十二日。独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人
      の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ

長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入いでいりつ

四海楼に陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来く

      十月。東京大相撲來る。釋迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に
      會ふ

巡業に來ゐる出羽嶽わが家にチャンポン食ひぬ不足もいはず

      十月三十一日。光源寺にて暁烏敏師の説教を聽き、のち鳴瀧シイ
      ボルト遺跡を訪ふ

この址にいろいろの樹あり竹林に冬の蠅の飛ぶ音のする

      十二月二十八日。渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ

隠元の八十一歳の筆といふ老いし聖の面(おも)しおもはゆ

      十二月三十日。十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より來る。
      今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ

四歳の茂太をつれて大浦の洋食くひに今宵は來たり

はやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子外(と)に行かしめず

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす

大正9年(1920年)

      五月三十日。雷が丘、雨聲樓(秋帆別邸)辰巳にて夕餐會等を
      催す

萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ

      六月二十五日。六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今
      日縣立病院に入院す。西二病棟七號室なり。菅沼教授來診

病ある人いくたりかこの室を出入りけむ壁は厚しも

ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑし病むしはぶきの聲も聞こゆる

闇深きに蟋蟀鳴けり聞き居れど病人(やみびと)吾は心しづかにあらな

      七月二十四日。島木赤彦はるばる來りて予の病を問ふ

長崎の暑き日に君は來りたり涙しながるわがまなこより

よしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな

   温泉嶽療養

      大正九年七月二十六日。島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽
      にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二
      十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる

この道は山峡(やまがひ)ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ

この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか

赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが

草むらのかなしき花よわれ病みて生(いのち)やしなふ山の草むら

      八月十二日。久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人
      より菓子を贈らる

ジユネーヴのアスカナシイの業績を語りたまひて和(のど)に日は暮る

この山に君は來りて昆蟲の卵あつむと聞くが親しき

わが病診(み)たまひしかど朗らにていませばか吾の心は和(な)ぎぬ

湯平の温泉の話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず

萬屋に吾を訪ひまし物語るよりえ夫人は長塚節のこと

   長崎

      八月十四日。温泉嶽を發ちて長崎に歸りぬ。病いまだ癒えず。
      十六日抜齒、日毎に歯科醫にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温
      泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき

公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな

   唐津濱

      八月三十日。午前八時十五分長崎發、午後一時三十五分久保田發、
      午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ

五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは

肥前なる唐津の濱にやどりして唖のごとくに明け暮れむとす

      八月三十一日。木村屋旅館滞在。

城址にのぼり來りて蹲(しやが)むとき石垣にてる月のかげの明るさ

      九月五日。高谷寛と滿島にわたる

松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも隠さふべしや

      九月十一日。午前九時五十六分唐津發、十二時半佐賀驛にて高
      谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乘り、ゆふぐれ小城郡古湯
      温泉に著きぬ

ねもごろに吾の病を看護(みとり)してここの海べに幾夜か寐つる

わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる

わたつみの海を離れて山がはの源のぼりわれ行かむとす

   古湯温泉

      九月十一日。佐賀縣小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三
      日に至る

うつせみの病やしなふ寂しさは川上川のみなもとどころ

ほとほとにぬるき温泉(いでゆ)を浴(あ)むるまも君が情を忘れておもへや

砂濱に外人ひとりところがりて戯れ遊ぶ日本のをみな

鹽はゆき温泉(いでゆ)を浴みてこよひ寝む病癒えむとおもふたまゆら

ここに來て落日を見るを常とせり海の落日(いりひ)も忘れざるべし

温泉(うんぜん)の山のふもとの鹽の湯のたゆることなく吾は讃(たた)へむ

   嬉野

      十月二十日。小濱發、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著

旅にして彼杵神社の境内に遊楽相撲見ればたのしも

祐徳院稲荷にも吾等まうでたり遠く旅来しことを語りて

嬉野の旅のやどりに中村梧竹翁の手ふるひし書よ

この山を越えて進みし大隊が演習やめて一夜湯浴みす

透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限りもなしも

この村の小さき社の森に來て黙(もだ)すことあれど心足らはず

わが病やうやく癒えぬと思ふまで嬉野の山秋ふけむとす

      十月二十五日、平戸行。平戸丸や旅館。小國李果に會ふ。崎方
      町阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、龜甲城址、龜岡神社等

阿蘭陀の商人(あきびと)たちは自らの生業のためにこれを遺しき

あはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし

われは見つ肥前平戸の年ふりし神楽の舞を海わたり來て

      十一月五日。長尾寛濟十月八日東京にて歿す行年四十。東京巣
      鴨眞性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき

長崎に心しづめて居るときに永遠(とは)の悲しみ聞かむと思ひきや

浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光(かげ)の如や

      十一月十四日。土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ

黄檗の傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ

赤く塗りし大き木の魚かかりゐる僧等の飯(はん)のときに打つべく

扁額に海不揚波の四つの文字おごそかにして年ふりにける

      十一月二十一日。土屋氏長崎を發つ。夜辰巳に會合あり。

くれぐれの家に石蕗(つはぶき)の黄の花はわれとひととを招ぐに似たり

大正10年(1921年)

      大正九年十二月三十日。長崎發、熊本泊、翌三十一日熊本見物
      を終り、同夜人吉林温泉泊。大正十年一月一日。林温泉より鹿
      児島に至る。一泊

秀頼が五歳のときに書きし文字いまに殘りてわれも崇(たふと)

球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの狭間に生れし子等ぞ

みぎはには冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる

櫻島は黒びかりしてそばだちぬ熔巖ながれしあとはおそろし

      一月二日。夜宮崎神田橋旅館、三日宮崎神宮參拜

宮崎の神の社にまゐり來てわれうなねつく妻もろともに

神日本磐余彦の神の御光を源として永久に興らむ

      一月三日。午後三時青島につき、廣瀬旅館投宿、第五高等學校
      教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる

打寄する浪は寂しく南なる樹々ぞ生ひたるかげふかきまで

青島の木立を見ればかなしかる南の洋(うみ)のしげりおもほゆ

南より流れわたれる種子(たね)ひとつわが遠き代のことすぬばしむ

青島に一夜やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠き代や

      一月六日。太宰府觀世音寺、都府樓址、武雄温泉

觀世音寺都府樓のあともわれ見たり雜談をしてもとほりながら

   長崎を去り東上

      三月十六日。午後十一時長崎を出發す。先輩知友多く見送らる。
      予長崎に居ること足掛五年、滿三年三月なり。前田毅、江藤義
      成二君同車し、途上門司義夫君に會ふ。三月十七日。午前五時
      博多著、榮屋旅館。大學生青木義作、金子愼吾二君來る。榊、
      久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病學教室を參觀す。夜久
      保夫妻と晩餐を共にす

もろびとに訣(わかれ)をつげて立ちしかど夜半過ぎて心耐へがてなくに

春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂の話長塚節の話

あたたかき御心こもるこの室(へや)にあまたの猫も飼はれて遊ぶ

      三月十八日。午前九時四十二分博多發、十一時四十二分小倉著、
      市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名
      物おやき餅。

春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出して

公園の赤土のいろ奇兵隊戰士の墓延命寺の春は海潮音

      三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高濱上陸、汽車
      にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港
      より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社參拜

年ふりし道後のいでゆわが浴(あ)めばまさごの中ゆ湧きくるらしも

大洋(おほうみ)をわれ渡らむにこの神を齋(いは)ひてゆかな妻もろともに

      三月二十二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。
      高松午後四時發、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等
      學校に山宮・志田二教授を訪ひ、醫學専門學校に荒木(蒼太郎)
      教授を訪ふ。市内(人力車)、城、後樂園

この園の鶴(たづ)はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴(たづ)の子ひとつ

時もおかずここに攻めけむ古への戰のあと波かがやきぬ

元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり

長崎の晝しづかなる唐寺やおもひいづれば白きさるすべりのはな

長崎にて暮らししひまに蟲ばみし金塊集をあはれみにけり

      墓前

龜戸の普門院なる御墓(みはか)べに水青き溝いまだのこれり

高原に足をとどめてまもらむか飛弾のさかいの雲ひそむ山

山のべににほひし葛の房花は藤なみよりもあはれなりけり

   小吟隨時

      左千夫先生九回忌 七月十日於龜戸普門院

逝きましてはや九年(ここのとせ)になるといふ御寺の池に蓮咲かんとす

      諏訪アララギ會 八月二十二日於上諏訪地藏寺

八千ぐさの朝な夕なに咲きにほふ富士見が原に吾は來にけり

      巖流島、下關萬歳樓、山陽ホテルに泊る

しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな(巖流島三首)

わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ

はるかなる旅路のひまのひと時をここの小島(をじま)におりたちにけり

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