『奥の細道』 〜東北〜


〜芭蕉翁奧の細道松島の文〜

五大堂から瑞巌寺へ。


 元文3年(1738年)4月、田中千梅は瑞巌寺に参詣している。

舩をあかりて瑞巌寺に詣す松嶋山瑞巌圓福禅林と称す真壁の平四郎出家し法心和尚入唐歸朝の後開山す其后(ノチ)遙乃年ありて雲居禅師の徳化によつて國寺政宗ノ主再興せられて門廡瓦を磨き堂宇金銀を鏤奥州一乃大伽藍也


松島の瑞巌寺には多くの碑がある。

多くの碑の中に「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑があった。


芭蕉翁奧の細道松島の文

 抑ことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥す東南より海を入れ江の中三里浙江の潮をたたふ島々の數を盡して欹つものは天をゆひさし伏すものは波にはらはふあるは二重にかさなり三重にたたみて左にわかれ右につらなる負へるあり抱けるあり兒孫愛するか如松のみとりこまやかに枝葉汐風に吹たわめて屈曲をのつからためたるかことし其氣色ヨウ(※穴冠の下に「目」)然として美人の顏をよそほふちはやふる神のむかし大山すみのなせるわさにや造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ

嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具建立。

 雄島(御島)に『奥の細道』の同文に芭蕉の句を添えた「芭蕉翁松島吟並序」の碑がある。

碑には多くの俳人の句が刻まれていた。


 古人
はるの夜の爪あかりなり瑞巖寺
   乙二

松島やここに寢よとよ花すみれ
   曰人

 大坂催主
寝れは水のうちにありけり千松島
   鼎左

 同江戸
松島や水無月もはや下りやみ
   一具

吹きわたる千島の松にはるの風
   由誓

松島に明ころの□はなれけり
   西馬

 須賀川
こゝろやゝまとめて月の千松島
   多代女

 仙台
さし汐に名をさへ涼し扇谷
   禾月

松島やほのかに見出す秋の空
   宗古

月こそと思ふに雪の千松島
   心阿

松島や島にかくれて残る秋
   舎用

松島や□□□□をなく□□□
   如雲

榴岡天満宮に禾月、宗古、心阿、舎用の句碑がある。

蒼々菴亀子の句碑があった。


短夜もおしまず水はながれけり

亀子は宗古の子

瓢菴午長の句碑があった。


明けの朝また見ん松の笑ひ(い)

嘉永6年(1853年)、建立。

塩竈の法蓮寺跡にも午長の句碑がある。

晋永機の句碑があった。


ひとつづつ終に暮けり千松島

永機は其角の門人。

 明治26年(1893年)7月29日、正岡子規は瑞巌寺の碑を見ている。

 瑞巌寺に詣づ。兩側の杉林一町許り奥まりて山門あり。苔蒸し蟲蝕して猶舊觀を存す。古雅幽靜太(はなは)だ愛すべき招堤なり。門側俳句の碑林立すれども殆んど見るべきなし。唯

      春の夜の爪あがりなり瑞岩寺    乙二

の一句は古今を圧して独り卓然たるを覚ゆ。


 昭和6年(1931年)2月22日、斎藤茂吉は瑞巌寺を訪れている。

   瑞巌寺

ちちははが幾たび話したまひけるほとけの寺にわれは來にけり

きさらぎはいまだも寒し雪のまにはつかに見ゆる砂は氷りぬ

『石泉』

 昭和30(1955年)年、松島町と宮城県俳句クラブの共催で松島芭蕉祭並びに全国俳句大会が開催された。

 昭和37年(1963年)10月、水原秋桜子は瑞巌寺を訪れている。

   松島、瑞巌寺

菊の香や芭蕉をまつる燭ひとつ

『晩華』

芭蕉碑


 昭和49年(1974年)11月10日、松島芭蕉祭並びに全国俳句大会20周年を記念して建立。

李登輝夫妻の句碑があった。


松島や光と影の眩しかり
   李 登輝

松島やロマンささやく夏の海
   曽 文惠

 平成19年(2007年)、李登輝元総統が「学術・文化交流と『奥の細道』探訪の旅」をテーマに来日された折、曽文惠夫人と共に詠まれた句。

平成20年6月8日、建立。

 平成23年(2011年)11月13日(日)、第57松島芭蕉祭並びに全国俳句大会が開催された。

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