2011年千 葉

伊藤左千夫の生家

〜伊藤左千夫の歌碑〜
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山武市殿台に山武市歴史民俗資料館(HP)がある。


歴史民俗資料館には伊藤左千夫の資料が展示されている。

隣接して伊藤左千夫の生家がある。

伊藤左千夫の生家

 明治時代の歌人、小説家・伊藤左千夫(1864〜1913年)の生家で、県の指定史跡になっている。約200年前の建築といわれる間口8間、奥行6間、屋根寄棟造り、カヤ葺きの母屋や土蔵のほか、茶室唯真閣がある。唯真閣は、文学のかたわら茶の湯を愛好した左千夫が、東京茅場町の居宅に山武杉を用いて建てたのを、死後ここに移築したもの。庭には明治33年に詠まれた「牛飼が歌よむ時に世の中の、新しき歌大いに起る」という一歌を刻んだ歌碑が建てられてある。

環境庁・千葉県

伊藤左千夫の歌碑


牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起る

伊藤左千夫の生家


一部が損傷して、内部の見学はできなかった。

 千葉県指定史跡

歌人 伊藤左千夫の生家

 伊藤左千夫は明治時代の歌人で、名は幸次郎という。元治元年(1864年)8月18日に殿台のこの家で父良作の四男として生まれ、明治18年に上京するまで多感な青春時代をここで過ごした。

 明治31年、最初の歌論を発表して短歌革新を説いたが、正岡子規「歌よみに與ふる書」を発表したのを契機として、しだいに子規に傾倒し、師事するようになった。子規没後は左千夫が中心となって『馬酔木』・『アララギ』などの短歌雑誌を刊行した。

 門下には島木赤彦斎藤茂吉・古泉千樫・中村憲吉・土屋文明らがおり、大正から昭和を通じて歌壇の主流となった。歌集・歌論集のほか小説も著し、小説『野菊の墓』はその代表作として有名である。

千葉県教育委員会
成   東   町

明治33年(1900年)4月29日、左千夫宅を訪れた正岡子規は「さすが茶を好める人の庭、塵一つもない」と稱え、無一塵なる扁額を贈った。感激した左千夫は無一塵庵と命名し、無一塵主人と号した。

 昭和15年(1940年)4月28日、斎藤茂吉は伊藤左千夫の生家を訪れた。

   殿臺

成東町の殿臺といふところ元治元年君は生れき

左千夫先生生れたまひし家に來て疊の上に暫し立ちけり

『のぼり路』

 昭和30年(1955年)11月29日、映画『野菊の如き君なりき』公開。

 昭和31年(1956年)、中村草田男は映画『野菊の如き君なりき』を観ている。

   「野菊の墓」の映画化されたものを観る。

川波さへ強きにすぎて初野菊


山口誓子は伊藤左千夫の生家を訪れ、歌碑を見ている。

 それから成東の殿台まで引つ返した。

 伊藤左千夫の生家が残つてゐて、門の左手に歌碑が立つてゐる。

   牛飼がうたよむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る

 この歌を左千夫は師の正岡子規に示したと云ふ。

 左千夫は東京の本所茅場町で搾乳を業としてゐたので、みづからを「牛飼」と云つた。専門の歌人ならぬ牛飼が、歌を詠む時世に、新しい歌が大いに起つて来たと云ふのである。

 土屋文明は「新しき歌大いに起る」などといふのは寧ろ正岡子規が歌はるべきものだ、と批評した。

 私はそのさかんなる歌の碑を見て、生家の裡に入つた。土間は広くて堅かつた。わたしはそれをしつかり踏んで立つた。手前の部屋から中の部屋が見え、奥の部屋まで見えた。奥の部屋は勉強の部屋だつたと云ふ。

「九十九里浜行」

 昭和41年(1966年)、総天然色『野菊の如き君なりき』上映。安田道代。

見た記憶がある。

『野菊の墓』映画化記念樹 アララギ


1981年7月19日 松田聖子

松田聖子の『野菊の墓』は見ていない。

 平成18年(2006年)3月27日、成東町は山武町・松尾町・蓮沼村と合併して山武市となった。

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