芭蕉の句碑岐 阜


苔埋む蔦のうつゝの念仏哉

大垣市青墓町に元円興寺跡がある。


 延暦9年(790年)3月、伝教大師最澄が円興寺を創建。

 平治元年(1159年)、平治の乱で敗れた源義朝、長男悪源太義平、次男朝長、三男頼朝は青墓の大炊兼遠を訪ねて落ちのびてきた。途中で負傷していた朝長は此の地で果て、円興寺に葬られた。時に16歳。

 天正2年(1574年)、織田信長の兵火に罹り、灰燼に帰した。

 万治元年(1658年)、現在の円興寺が山麓に再興された。

 貞亨元年(1684年)、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途中、朝長の墓を訪れている。

芭蕉の句碑があった。


苔埋む蔦のうつゝの念仏哉

 正徳2年刊『花の市』に所載。「みのゝくに朝長の墓にて」とあり、昭和54年3月大垣市青少年憩いの森整備に併せ建碑する。

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曽路の旅で朝長の墓のことを書いている。

青墓はむかしは垂井・赤坂と同く宿驛也。今は小里なり。町なし。名所也。古歌有。長者が屋敷の跡とてあり。朝長の社は、青墓の西の道より北のおくに有。海道より四五町ありと云。朝長八幡と云。其北の山上に朝長の墓あり。


 元禄16年(1703年)秋、岩田涼菟は赤坂の俳人矢橋木巴の案内で朝長の塚に詣でている。

   朝長の塚はあをはかの宿より拾八丁山のあなた
   に有涼菟をともなひてまうて侍ル

  赤坂
哀しれ鎧通しの花の露
   木巴

朝顔の拳こぶしにしほみけり
   涼菟


 宝暦13年(1763年)、蝶夢は「朝長父子の墳」を見ている。

 青野ゝ原に一本の老たるを「物見の松」とこそ、南宮のうしろを「美濃ゝ中山」といふとかや。青墓に太夫朝長父子の墳ならびたり。

   さばかりの泪にかれず春の草


 明和元年(1764年)9月9日、多賀庵風律は田子の浦の帰途、朝長の墓を尋ねたが分からなかったようである。

誰人にか逢て朝長の墓を尋むと心かけけるに町のはつれにむそち計の僧の立たるに近つきて朝長の墓ハいつれに侍るそと問けるに是ハ墓参する人にやかゝる墓ハしらすと答けり


 享保2年(1802年)3月25日、太田南畝は「義朝・朝長・義平の墓」のことを書いている。

青野村は人家すくなし。松の並木の中をゆくに右は田畠ばかりに見わたされて山を見ず。左は田をへだゝて山ちかくみゆ。土橋をわたりて青墓の宿なり。左の方に弘医山円願寺といふ廃寺あり。義朝・朝長・義平の墓ありといふ。昔は北山の麓にありしが、近比こゝにうつせりといふ。雨ふりまさりて輿の戸もあけがたければ見過ごしつ。


昭和58年(1983年)、阿波野青畝の句。

   美濃円興寺。源義朝の長男義長自刃

源義長の位牌に美濃の柿まつ赤

『除夜』

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