「人モ行かぬ、雑草の丈なす山中で逢った山賤は、むずと口をとざして開こうともしないことよ」の意。>
「甲斐山中」という前書にふさわしく、人に逢うこともない山中でようやくにして逢った山賤も。起ったような無愛想な表情をして口を開きそうな気配も見えぬという、力強い句である。山中人懐しさの念がきざしている折も折、はからずも逢った山賤の風貌の、いかにも山人らしい厳しさに驚き見つめている感じの句である。>
『続虚栗』(貞亨四年刊・其角編)に所収。『蕉翁句集』(「甲斐山中」と前書)にも収め、元禄二年作とするが、『野ざらし紀行』の旅の帰途の作であろう。暁台の「峡中之記」(天明三年)に「天和の変」(天和三年)の際の作と考えているらしい記事があり、「山中」を地名として「山中にて」と前書、中七「頤とぢる」とするが、『続虚栗』に従うべきであろう。なお、右の記述は、『暁台句集』の暁台の句の前書中にも出る。
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明治29年(1896年)10月、初狩の古池連建立。春秋庵三森幹雄筆。
碑陰に「発起」は「初狩 古池連」「連頭 此処庵」、「補助」には「東京 幹雄」「京都 聴秋」「美濃 虚白」「遠江 十湖」の名が見える。
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明治32年(1899年)10月10日、建碑を記念して『葎塚集』(此処庵大弌編)が刊行されている。曙庵虚白序。
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ここに甲斐の国なる此処庵大弌雅哲はこたび葎塚てふを建築せらるゝ事は、往昔我翁行脚の折から口ずさみ、駄比して唾を以て万世不朽に伝へて碩徳を敬ひ奉らんとの篤情は感称するにあまりありと言ふべし。扨予は編集は大撰の一名に加はりしことの因縁浅からざるを思ひめぐらすに就ても、葎塚には風雅の冥慮も永く著しからむと或は敬し、或は渇仰して敢拙辞を述ぶる事しかり。
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したひよる徳や螢もむぐら塚
| 曙 庵 虚白
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荻原井泉水は初狩村で芭蕉の句碑を見ている。
道がしぜんと下りになって、橋があって、又爪先上りに上った所の道端に、句碑が立っていた。
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山賤の頤
| 芭蕉
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とづる葎哉
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| (中教正三森幹雄謹書)
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句碑の脇に小さな「蕉翁塚」があった。
蕉翁塚

上部は欠落している。
右側面に「東都松露庵門人 初狩[連]」とある。
安永4年(1775年)、松露庵三世烏明建立。白雄の書であるという。
明治40年(1907年)8月、山津波の折流失。
大正末年頃、宮川橋より下流100メートル辺りの畑中で発掘。
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酒折宮へ。
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