同じ国、はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、 今はとて霞をわけてかへるさにおほつかなしや初雁の里 |
「山賤(やまがつ)」は猟師・きこりなど山の中で生活している人。「頤(おとがい)」は下顎のこと。 |
甲斐山中 二句 山賤の頤閉る葎かな ゆく駒の麥になぐさむやどり哉 |
天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。翌年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒(1649〜1718)を頼って逗留している。 |
碑陰に「発起」は「初狩 古池連」「連頭 此処庵」、「補助」には「東京 幹雄」「京都 聴秋」「美濃 虚白」「遠江 十湖」の名が見える。 |
明治32年(1899年)10月10日、建碑を記念して『葎塚集』(此処庵大弌編)が刊行されている。曙庵虚白序。 |
ここに甲斐の国なる此処庵大弌雅哲はこたび葎塚てふを建築せらるゝ事は、往昔我翁行脚の折から口ずさみ、駄比して唾を以て万世不朽に伝へて碩徳を敬ひ奉らんとの篤情は感称するにあまりありと言ふべし。扨予は編集は大撰の一名に加はりしことの因縁浅からざるを思ひめぐらすに就ても、葎塚には風雅の冥慮も永く著しからむと或は敬し、或は渇仰して敢拙辞を述ぶる事しかり。 |
したひよる徳や螢もむぐら塚 | 曙 庵 虚白 |
道がしぜんと下りになって、橋があって、又爪先上りに上った所の道端に、句碑が立っていた。 |
山賤の頤 | 芭蕉 |
||
とづる葎哉 |
|||
(中教正三森幹雄謹書) |
『随筆芭蕉』(甲州路) |
安永4年(1775年)、松露庵三世烏明建立。白雄の書であるという。 明治40年(1907年)8月、山津波の折流失。 大正末年頃、宮川橋より下流100メートル辺りの畑中で発掘。 |