静岡市清水区興津清見寺町の東海道本線沿いに清見寺(HP)という寺がある。 |
天武天皇の白鳳年間に清見関が設けられ、清見関の鎮護として建立された仏堂が清見寺の始めと伝えられている。 寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の任果てて上京。清見が関を行く。 |
清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。 |
弘安2年(1279年)10月26日、阿仏尼は清見が関を通る。 |
暮れかゝる程清見が関を過ぐ。岩越す浪の白き衣を打着するやうに見ゆる、いとお(を)かし。 清見潟年経る岩に言問はん浪の濡衣幾重ね着つ |
文正元年(1466年)、宗祇が関東に下向する途中、駿府に義忠を訪ねた。宗長は義忠の仰せで宗祇を清見が関に案内した。 |
二十九日、宗祇故人先年当国下向思ひ出でて、折に合ひはべれば、年忌の一折張行。 思ひ出づる袖や関もる月と波 この心は、先年この寺に引誘して、関にて一折の発句、宗祇 月ぞゆく袖に関もれ清見潟 思ひ出づるといふ愚句なるべし。新古今に、 見し人の面影とめよ清見潟袖に関もる波の通ひ路 この歌、本歌にや。
『宗長日記』 |
文亀2年(1502年)8月11日、宗長は清見が関へ。 |
道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうがりしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長 もろともに今夜清見が関ならばおもふに月も袖ぬらすらん |
宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、清見潟に泊る。 |
ゆきゆきて、月の清見潟に枕を柱(さゝ)ふ。阿佛尼のなまぐさきめにあへるも此浦の旅寢ならむ。 |
明和8年(1771年)4月20日、諸九尼は清見が関を過ぎる。 |
廿日 清見が関を過るに、岩こす波の、白き絹を打きするやうにミゆと有、ふるき文の言葉、げにとおもひ出られて、あかず詠侍る。 |
きくの日清見寺に詣て 雪舟が筆の走りか菊の露 |
徳川家康が今川氏の人質として駿府にいた頃、清見寺住職太原和尚に教育を受けていたそうだ。 天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉は清見寺に滞在、伊豆韮山城攻めに清見寺の鐘を陣中で使用したと言われている。 |
貞亨4年(1687年)4月26日、大淀三千風は薩垂峠を過ぎ、清見寺へ。 |
同卯月廿六日吹上の松。薩垂峠を過。清見寺にのぼる。三國一の風景。言翰のをよぶ所にあらず。されども獨つぶやく。 |
元禄元年(1688年)2月、鬼貫は伊丹を立ち、清見寺を訪れている。 |
春風や三穂の松原清見寺 |
元禄3年(1690年)9月29日、鬼貫は江戸に向う旅の途上清見寺で句を詠んでいる。 |
江尻を過て、清見寺にのぼる。 庭上秋深うして佛閣靜に高し。海 原見やる所望めば、こゝろのび、 また心よはくなれり。 秋の日や浪に浮たる三穂の邊 |
元禄5年(1692年)7月15日、森川許六は清見寺を訪れて句を詠んでいる。 |
七月十五日到清見寺 |
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盆棚やむかひは冨士よ清見寺 | 許六 |
『旅舘日記』(許六編) |
元禄11年(1698年)6月7日、岩田涼莵は清見寺で句を詠んでいる。 |
清見寺 椶櫚の葉に蝉はひとつか清見寺 |
元文2年(1737年)6月、白井鳥酔と秋瓜は沼津から清見寺を訪れている。 |
清見寺 |
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折から掃除日とて |
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寺僧のあまたおり立ければ |
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箒とる坊さま涼し清見潟(寺) | 秋瓜 |
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清見とは松の葉越の鰹ぶね | 西奴 |
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むかし朱雀天皇の御時將門といふ者東にて逆謀起しけるに是をたいらけん爲にうちの民部卿忠文をつかはしける此關に到りてとゝまりけるか清原重藤といふ者民部卿伴ひてぐんかんと云つかさにて行けるか漁舟の火の影は寒うして浪を燒驛路の鈴の聲は夜山を過ぐといふから哥をなかめけれは民部涙をなかしけると聞て哀なり 清見かた關とはしらす行人も心はかりはとゝめおくらん折から名物にたはむれて 新蕎麥や目をとゝめたる人通り |
享和元年(1801年)3月1日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で清見寺を訪れた。 |
右のかたに石坂あり。三曲にして門にいれば清見寺なり。庭に大きなる梅の木横たはれり。客殿の椽に永世孝享の額あり。また諸仏宅の三字は朝鮮の青螺山人の筆なり。此門前は清見がせきの跡なりといふ。春の海づらきよくして、右に三穂の松原さしいでゝ、田子の浦とをし。かゝる詠めをさしをきて、書院の庭に石を畳み、水はしらせたらんもいかゞならんと、さしのぞきしまゝにて出ぬ。 |
貞亨3年(1686年)8月、去来は妹千子と『伊勢紀行』の旅をした。その跋文に添えて贈った句。 清見寺の五百羅漢石像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている。 |
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。
誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。
連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。
磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。 |