俳 人

下里知足
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 千代倉という屋号の造り酒屋の当主。名は吉親。鳴海六歌仙の一人。知足斎。法名は寂照。のち下里の姓を下郷に改めた。

知足 平氏、尾張鳴海宿、千代倉、下郷金三郎、幼名金三郎、勘左衛門寂照軒ト号ス、叔皿庵、蝸亭、寶永元甲申年四月十三日卒、知足菴寂照湛然居士、五十回忌集ヲいらこ雲集ト云フ。松が根に千代をあやかるのぎく哉 知足母 ちどりがけ集、知足子蝶羅出ス、

『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

下郷家本家(千代倉屋)


 寛永17年(1640年)、尾張鳴海に生まれる。

 寛文11年(1671年)6月13日、知足は富士参りに立つ。23日、江戸に着く。7月1日、江戸を立ち、6日、鳴海に着く。

 六月十三日 曇ル 富士参リニ立。昼過より。此晩岡崎善国寺ニ泊ル。

 六月十八日 天晴 朝食過ヨリ立。富士参詣。室ヲ夜四つ過ニ立。同道十一人。下人共ニ。

 六月廿三日 此夜四つ迄雨降。江戸ニ着。

 七月朔日 雨昼迄降 江戸発足。大磯ニ着。

 七月六日 昼迄雨降 鳴海ニ着。

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 延宝6年(1678年)8月7日、知足は谷汲観音に参詣、8日は大垣の下里六左衛門宅に泊り、俳諧。

 延宝7年(1679年)6月9日、知足は有馬温泉に向かい桑名へ渡る。7月21日、鳴海に戻る。

 貞亨2年(1685年)4月4日、芭蕉は『野ざらし紀行』を終え帰庵の途、下郷知足の家に泊り俳筵を開いた。

杜若我に發句のおもひあり
   芭蕉

   麥穂なみよるうるほひの末
   知足


 4月10日、芭蕉は江戸へ御下る。

十日 青天 桃青丈江戸へ御下り。

『知足斎日々記』

 貞亨4年(1687年)11月4日、芭蕉は『笈の小文』の旅で知足亭に泊っている。

松尾桃青老江戸ヨリ御越御泊リ

『知足斎日々記』

 11月7日、寺島安信宅の歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻。

 11月10日、芭蕉は越人を伴い保美(渥美町)に杜国を訪れ、16日には鳴海に戻っている。

桃青老越人昨夜宮より又御越、今朝三州へ被参候

芭蕉翁越人三州より此晩御越、御泊り。

『知足斎日々記』

 貞亨5年(1688年)7月7日、芭蕉は鳴海にやって来て14日まで鳴海に滞在している。

桃青老名古屋ヨリ今朝御越

『知足斎日々記』

 貞享5年(1688年)9月17日、其角は知足亭に立寄り、晩に荷兮方へ。

天晴 江戸其角御こし。晩ニ荷兮方へ被参候。

『知足斎日々記』

 元禄2年(1689年)6月19日、芭蕉は奥の細道の旅の途上、酒田から知足に手紙を書いている。

○十九日 快晴。三吟始。明廿日、寺嶋彦助江戸へ被趣ニ因テ状認。翁より杉風、又鳴海寂照・越人へ被遣。予、杉風・深川長政へ遣ス。

『曽良随行日記』

元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は51歳で没。

元禄7年(1694年)11月12日、如意寺に供養塔を建立。



芭蕉翁

最古の芭蕉供養塔である。

その後、下里知足の菩提寺である誓願寺に移された。

 元禄10年(1697年)6月2日、知足は「七里のわたし」を渡り、京・大坂へ旅をする。22日、帰宅。

六月二日 晴天 東宮参り。暮五つ比、宮喜三郎、六人かご、船頭三人ニて、鳴海川口より桑名へ渡海。船賃九百文遣。駕ノ者共ニ九人乗。

六月廿六日 晴天 朝五つ比宮へ着船。歩ニて鳴海へ昼前ニ何れも無事ニて帰宅申候。

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 元禄12年(1699年)、支考は鳴海を訪れ知足と歌仙。

      鳴海

   華を吹風やかたまる櫻の實
   知足

    出茶屋を荷ひありく灌佛
   支考

   鷺のつく清き流に魚飛て
   如風

    入日の影に山の赤兀
   蝶羽

   初茸にたゝ一雨をまつ斗
   安宣

    灸志て戻る小僧漸寒
   龜世

   もらふたる鏡見て居る窓の月
  ボク言

    菊をいはふて志まふ椀家具
   自笑


 元禄15年(1702年)4月27日、山口素堂は千代倉家に立ち寄る。29日、御油へ。

四月廿七日 晴天 今晩七つ時分ニ、江戸山口素堂丈御下り、立寄被申候。今晩泊り被申候。

四月廿九日 晴天 今朝素堂御油迄御越。ちりふ迄駕ニて送ル。

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 元禄16年(1703年)5月26日、魯九は白雪の添状を持って千代倉家を訪れている。

 元禄16年(1703年)10月22日、涼菟は北国行脚の帰途、露川と共に千代倉家に泊る。

十月廿二日 晴天 伊勢団友、なごや露川、如瓶被参、何れも泊り。はいかい歌仙出来ル。

十月廿三日 少々時雨 露川、如瓶昼比帰ル。

十月廿四日 晴天 団友同道ニて伊右へ振廻ニ行。歌仙一巻出来。

広々と鷹も宿かる一間哉
   団友

 人稀に来る木枯の峯
   ボク言

笘まく□□□□に今朝の月寒て
   知足

『千代倉家日記抄』(知足日記)

 元禄17年(1704年)2月8日、惟然は千代倉家に泊まる。12日、名古屋へ。

 元禄17年(1704年)3月13日、宝永に改元。

 宝永元年(1704年)4月7日、素堂は千代倉家に逗留。12日、桑名へ。

宝永元年(1704年)4月13日、65歳で没。

「日本橋鮒佐」に芭蕉の句碑がある。


発句也松尾桃青宿の春

下里知足の自筆だそうだ。

知足の句

手ならひの師匠へやるや大根引


出替や照日に下駄をはきて行


むめか香や庵の尻の吹とまり


五月雨や鷺の乗たる渡し舟


知足の長男は蝶羽。千代倉家三世風和。

正徳2年(1712年)、蝶羽は俳諧千鳥掛』を板行。

知足の四男は亀世。千代倉家四世鉄叟。

安永2年(1773年)10月、蝶羽の子蝶羅は「春雨塚」を建立。

安永6年(1777年)、亀世の子学海は芭蕉の句碑を建立。



明治44年(1911年)5月26日、河東碧梧桐は下郷亭を訪れている。

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