俳 書
『芭蕉翁發句集』(上) ・ (下)
蝶夢編。安永5年(1776年)5月、蝶夢自序。750余句を集録。
寛政元年(1789年)7月、再版。
今はむかし京極中川の寺よりこの東山岡崎の草庵に隠れ住みけるもはや十年になりぬ。
その年頃つれづれの折ふしは芭蕉翁の發句をよみて、ひたぶる其世のなつかしさのあまり、土芳が蕉翁句集、史邦が小文庫、支考が笈日記、桃隣が陸奥千鳥、風國が泊船集等の門人の古き句集を輯録し、かつ芭蕉句選の誤りを改め芭蕉翁發句集を著述して、過ぎし午の年の春ならむ梓にのす。
其發句集をしも小冊に物して花晨月夕に好士の袖にするたよりあらしめむと、書林井筒屋庄兵衛のこふによりて、其句をかたの如く年歴の次第に書き並べ、年歴の分明ならざるは、其句の題の末に書て句體に流行有ることをしらしむ、四季のあつかひ、てにをはのたがひ、諸集の中に同異あるは土芳の句集によりてしるす。
句選に集めしは六百三十餘句なりしに、かれこれの書に拾ひ集めて、さりと覺ゆる句を追加して七百五十餘句となれり。さはいへ聞きたがへ思ひあやまりたること多かるべし、これを正さむ事は後の人にゆづるものなり。
安永五年五月あやめ草ふける軒にして
蝶夢幻阿書之
芭蕉翁發句集 上
宵の年空の名殘をしまむと酒のみ夜更して元日晝まで寝て餅くひはづしぬ
湖頭の無名庵に年をむかふ時、三日口を閉ぢて題正月四日
探丸子の君別墅の花見催させ給ひけるにまかりて
翌は檜木とかや谷の老木のといへる事ありきのふは夢と過ぎて明日はいまだ來らずたゞ生前一樽のたのしみの外に翌(アス)は翌(アス)はと言ひくらして終に賢者の譏をうく
かつらぎ山の麓を過るに四方の花ざかりにて嶺々は霞わたりたる明ぼのの景色いと艶なるにかの神のみかたちあしゝと人の口さがなく世にいひつたへ侍れば
伊賀の國花垣の庄はそのかみ南都の八重櫻の料に附けられけると言ひつたへ侍れば
上野の花見にまかりけるに人々幕打さわぎ物の音小うたの聲さまざまなるかたはらの松陰をたのみて
行春や鳥啼き魚の目はなみだ
望二湖水一惜レ春
行春を近江の人とをしみける
館代より馬にて送らる此口付の男短冊得させよとこふやさしき事を望み侍るものかなと
圓覺寺大顛和尚ことしむ月のはじめ遷化し給ふよし誠や夢のこゝちせらるにまづ道より其角が方へ申遣しける
山崎宗鑑屋敷にて近衛殿の宗鑑が姿を見ればかきつはたとあそばしけるとを思出て心の中にいふ
ありがたき姿拜まむかきつばた
伊豆の國蛭が小嶋の桑門これも去年の秋より行脚しけるに我名を聞て草の枕の道づれにもと尾張の國まで跡をしたひ来りければ
武府を出て故郷に赴く川崎まで人々送り來りて餞別の句をいふそのかへし
招提寺にて鑑眞和尚の御影を拝し御目の盲させ給ふ事を思ひつゞけて
石山の奥國分といふ所に人の住み捨てたる庵あり幻住庵といふ清陰翠微の佳境いとめでたき眺望になむ侍れば卯月のはじめ尋入て
佐藤庄司が舊跡の寺に義経の太刀辨慶が笈をとゞめて什物とす
仙臺に入るあやめふく日也畫工嘉右衛門と云者あり紺の染緒付たる草鞋を餞す
蓑輪笠島も此頃の五月雨に道いとあしく身つかれぬれば餘所ながら眺やりて
光堂は七寳ちりうせて珠の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽ちたり
栗の木陰をたのみて世をいとふ僧あり可伸といふ
挙白といふものの武隈の松見せ申せ遅ざくらと餞別したりければ
この境はひわたるほどといへるも爰の事にや
露川がともがら佐屋まで道送りして共に山田氏が家にかり寢す
鵜飼といふものを見侍らんと暮かていざなひ申されしに
鵜舟の通り過ぎぬる程に歸るとて
清水流るゝ柳は蘆野の里にありて田の畔に残るいづくの程にやと思ひしをけふ此柳の陰にきて立寄り侍りつれ
花の上漕ぐとよまれし櫻の老木西行法師の記念をのこす
那須の温泉明神の相殿に八幡宮を移し奉りて兩神一方に拜れ給ふ
千子が身まかりけるを聞て去來の許へ申しつかはしける
芭蕉翁發句集 下
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