俳 書
『野ざらし紀行』
貞享元年(1684年)秋、門人苗村千里を伴い江戸から伊賀に帰郷し、吉野・山城・美濃・尾張などに遊ぶ。翌年尾張を経て、4月江戸に戻るまでの旅の紀行。甲子吟行。
元禄11年(1698年)、板行。
千里は俗名粕谷甚四郎、油屋嘉右衛門。
享保元年(1716年)7月18日、没。享年69歳。
千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入ると云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也。
野ざらしを心に風のしむ身哉
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秋十とせ却て江戸を指古郷
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何某ちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交ふかく、朋友信有哉此人。
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
いかにぞや、汝ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。
静岡県富士市の平垣公園に俳文碑がある。
廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。
松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て塵有、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず。
暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)処々に見えて、「また上もなき峯の松風」身にしむ計、ふかき心を起して、
伊勢神宮(外宮)
西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに、
長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、
大和の国に行脚して、葛下(かつげ)の郡竹の内と云処は彼ちりが旧里なれば、日ごろとゞまりて足を休む。
わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
二上山当麻寺に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ、大イサ牛をかくす共云べけむ。かれ非常(情)といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬかれたるぞ幸にしてたつとし。
僧朝顔幾死かへる法の松
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづか〔に〕有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水はむかしにかハらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。
露とくとく心みに浮世すゝがばや
若是、扶桑に伯夷あらば、必ず口をすゝがん。もし是杵(許)由に告ば、耳をあらはん。
やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤(磐)の塚有。伊勢の守武が云ける「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。我も又、
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
桑名本当(統)寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに、浜のかたに出て、
熟(熱)田に詣
社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに繩を張りて小社の跡をしるし、爰に石をすゑて其神と名のる。よもぎ・しのぶ、こころのまゝに生たるぞ、中々にめでたきよりも、心とゞまりける。
熱田神宮
爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、
二月堂
伊豆の國蛭が小嶋の(僧)桑門、これも去年の秋より行脚し(て)けるに我が名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたひ来りければ、
此僧予に告げていはく、圓覺寺の大顛和尚今年陸(睦)月の初、遷化し玉ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、先道より其角が許へ申遣しける。
江戸深川に帰る時に熱田で詠まれた句に「翁これより木曽に趣(赴)」とある。
思ひ出す木曽や四月の桜狩
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京の杖つく岨(そば)の青麦
| 東藤
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『知足斎日々記』に「桃青丈江戸へ御下り」とあることから、木曽路は通らず東海道を下ったようである。
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