貞享3年(1686年)、芭蕉43歳の作。季語「雪丸げ」で冬。芭蕉の俳文「雪丸げ」を収める『花鱠』(若人撰)等に出典する。「君」は芭蕉とともに雪月花の風情を愛する文人の意で、『花鱠』の前書から曾良のこと。曾良は本名岩波庄右衛門正字、後に河合氏の養子となり、惣五郎と称す。貞亨初年頃、芭蕉に入門。芭蕉庵近くに住み、薪水の労を助けた。後に芭蕉の『鹿島紀行』の旅や『おくのほそ道』の旅に同行している。「雪まるげ」は、雪まろげ・雪こがし、などともいい、雪をまるめころがす子供の遊び。庵住生活の芭蕉をわざわざ雪の日に訪れるという。そんな風狂を愛する親しい友の来訪に、芭蕉の喜びにはずんだ気持や、童心かえり雪に興じる姿がうかがえる。 句意は「君は囲炉裏の火を焚いてよくおいでなされた。炉の火を焚いて温まっていてくれ。これから私はよい物を作って君に見せてあげよう。庭の雪で大きな雪丸げを作ってね。」 |
寛文6年(1666年)、芭蕉23歳の作。季語「雪」で冬。 芭蕉が宗房と号していた青年期の作。僧慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり」の歌が芭蕉の心にあって、「松」に「待つ」を掛け、雪を待つ意味を表している。「時雨」は初冬から降る冷雨のことで、連歌和歌の世界では木々を紅葉させるものとされてきた。 (句意)多くの木々を鮮やかな紅葉に染める時雨も、降ったり止んだりして松の色を染めかねている。それをもどかし思って、松が雪化粧でもしたいと待っていると、折から雪が降ってきて緑を一気に白に変えたのであろう。 |
草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり 両の手に桃と桜や草の餅 |
元禄7年(1694年)5月中旬、芭蕉は島田宿の俳人塚本如舟邸に滞在。世話になった如舟に対する挨拶の句。 |