私の旅日記〜2012年〜
「くれは水辺公園」〜【冬の広場】〜
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君火を焚よき物見せむ雪丸げ
貞享3年(1686年)、芭蕉43歳の作。季語「雪丸げ」で冬。芭蕉の俳文「雪丸げ」を収める『花鱠』(若人撰)等に出典する。「君」は芭蕉とともに雪月花の風情を愛する文人の意で、『花鱠』の前書から曾良のこと。曾良は本名岩波庄右衛門正字、後に河合氏の養子となり、惣五郎と称す。貞亨初年頃、芭蕉に入門。芭蕉庵近くに住み、薪水の労を助けた。後に芭蕉の『鹿島紀行』の旅や『おくのほそ道』の旅に同行している。「雪まるげ」は、雪まろげ・雪こがし、などともいい、雪をまるめころがす子供の遊び。庵住生活の芭蕉をわざわざ雪の日に訪れるという。そんな風狂を愛する親しい友の来訪に、芭蕉の喜びにはずんだ気持や、童心かえり雪に興じる姿がうかがえる。
句意は「君は囲炉裏の火を焚いてよくおいでなされた。炉の火を焚いて温まっていてくれ。これから私はよい物を作って君に見せてあげよう。庭の雪で大きな雪丸げを作ってね。」
しほらしき名や小松吹く萩芒
出典は『奥の細道』。「小松と云所にて」と前書きがある。
元禄2年(1689年)7月24日、芭蕉は小松を訪れ3泊している。
時雨をやもどかしがりて松の雪
出典は『続山の井』。
寛文6年(1666年)、芭蕉23歳の作。季語「雪」で冬。
芭蕉が宗房と号していた青年期の作。僧慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり」の歌が芭蕉の心にあって、「松」に「待つ」を掛け、雪を待つ意味を表している。「時雨」は初冬から降る冷雨のことで、連歌和歌の世界では木々を紅葉させるものとされてきた。
(句意)多くの木々を鮮やかな紅葉に染める時雨も、降ったり止んだりして松の色を染めかねている。それをもどかし思って、松が雪化粧でもしたいと待っていると、折から雪が降ってきて緑を一気に白に変えたのであろう。
兩の手に桃と櫻やくさの餅
出典は『桃の実』(兀峯)。
富二花月一
元禄5年(1692年)3月3日、桃の節句に詠まれた句。
苣はまだ青葉ながらに茄子汁
出典は「真蹟懐紙」。
『芭蕉句選』には「青葉なからや」とある。
元禄7年(1694年)5月中旬、芭蕉は島田宿の俳人塚本如舟邸に滞在。世話になった如舟に対する挨拶の句。
梅若菜丸子の宿のとろゝ汁
出典は『猿蓑』(去来・凡兆共編)。
元禄4年(1691年)、乙州が江戸に赴く時の餞別句。
藪椿門ハ葎のわか葉哉
出典は『笈日記』(伊勢部)。
『真蹟詠草』には「二乗軒と云草庵会」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)、芭蕉45歳の句。
『笈の小文』には「いも植て」とある。
見落とした2基を含めると、「くれは水辺公園」には21基の芭蕉句碑があることになる。
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