旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

大正6年 ・ 大正11年 ・ 大正14年

大正11年(1922年)

   1月2日〜雜司ケ谷墓地

正午南鍋町の風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雜司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拜す。去年の忌辰には腹痛みて來るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて來り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保賣宅の際移植したる蝋梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蝋梅のことは既に斷腸亭襍藁の中に識したれば再び言はず。

   1月7日〜不在中百合子來る〜

晴れたれど風寒し。不在中百合子來る。

   1月9日〜百合子來る〜

曇りて寒し。午後百合子來る。薄暮雨霰を交ゆ。

   1月15日〜泥濘の巷〜

晴れて暖なり。雪後泥濘の巷を歩み大石國手を訪ひしが不在なり。

   1月17日〜百合子を訪ふ〜

同雲黯澹たり。夜百合子を白河町の家に訪ふ。

   1月19日〜お房に逢ふ〜

夜四谷に徃きお房に逢ふ。

   1月28日〜八重次に逢ふ〜

松莚子に招がれて風月堂に飲む。醉歩蹣跚獨り彌生に至り八重次に逢ふ。

   2月3日〜八重次の手紙〜

雨ふる。夜芳町の妓家に飲む。唖々子來り會す。銀座清新軒に至りて更に一酌し陶然として家に歸る。八重次の手紙あり。感冒久しく癒えず。昨夜俄に血を吐くこと二囘に及び、長谷川病院に入り、生命あやうしといふ。愕然酒醒め終夜眠ること能はず。

   2月4日〜八重次を訪ふ〜

雨歇む。午後草花一鉢を携へ、長谷川病院に八重次を訪ふ。受附のもの面會謝絶の札貼てありといふ。余は人目を憚り唖々子の刺を通ずるに、病室幸にして見舞の人なき由。漸くにして逢ふことを得たり。前日の手紙は精神昂奮のあまりに識せしものなるべし。重患なれど養生すれば恢復の望なきにはあらざるべし。〜

   2月6日〜八重次の病を訪ふ〜

南左柄木町彌生の内儀來りて勸むるがまゝ再び今川小路の病院に八重次の病を問ふ。院長長谷川氏と神田の風月堂に至り晝餐を食す。

   2月23日〜示威運動〜

惡寒稍去りたれば食事に出づ。普通選擧示威運動にて虎の門日比谷の邊雜沓甚し。夜に入り暴動起るべしと流言頻なり。

   3月8日〜新冨座〜

玄文社新冨座見物。久保田萬太郎初めて芥川龍之助(ママ)を紹介す。歸途風寒し。

   4月16日〜帝國ホテル失火〜

午後與謝野氏宅にて明星編輯會あり。森先生御出席と聞き、赴きしが來給はず。風月堂にて夕餉をなし清元會に徃く。この日ホ(※「日」+「甫」)下帝國ホテル失火。希臘人一名燒死せりと云。

   4月25日〜井上如苞逝去〜

松莚子に招がれて風月堂に至る。倶に銀座を歩む。井上唖々子嚴父如苞翁逝去の報に接す。

   4月25日〜井上君先考の葬儀〜

日の光早くも夏となれり。午下小石川原町蓮久寺にて、井上君先考の葬儀あり。燒香の後木曜會の二三子と本念寺に立寄り、蜀山人および其後裔南岳の墓を掃ふ。南岳墓碣の書は巖谷小波先生の筆にして、背面に眞黒な土瓶つゝこむ清水かなといふ南岳の句を刻したり。この日午前十時半強震あり。時計の針停り架上の物落ちたり。白山よりの帰途電車にて神田橋を過るに外濠の石垣一町ほど斜に傾き水中に崩れ落ちたる處もあり。人家屋上の瓦、土藏の壁落ちたるもの亦尠からず。

   6月1日〜田村百合子

帝國劇塲初日、歸途平岡画伯田村百合子と共に自働車にて平川町なる田村女史の家に至る。余は直に歸る。

   6月4日〜百合子を訪ふ〜

百合子を訪ひ貝阪の洋食店寶亭に飯し、星岡の林間を歩む、薄夜風靜にして月色夢の如く、椎の花香芬々として人を醉はしむ。

   7月9日〜鴎外の死〜

早朝より團子阪の邸に徃く。森先生は午前七時頃遂に\を屬せらる。悲しい哉。

   7月12日〜鴎外の葬儀〜

朝五時頃、電車の運轉するを待ち家に歸る。一睡の後谷中齋場に赴く。此日快晴凉風秋の如し。午後二時半葬儀終る。三河島にて荼毘に付しボク(サンズイ+「墨」)上の禪刹弘福寺に葬ると云。

   8月9日〜弘福寺

曇りて風涼し。森夫子の逝かれし日なれば香華を手向けむとて向嶋弘福寺に赴く。門内の花屋にて墳墓を問ふに、墓標は遺骨と共に本堂に安置せられしまゝにて未墓地には移されずといふ。寺僧に請ひ遺(ママ)牌を拜して歸らむとせしが、思直して香華を森先生が先人の墓に供へてせめての心やりとなしぬ。

   8月30日〜清元秀梅

晴。夜清元秀梅と牛込の田原屋に飲む。秀梅醉態妖艶さながら春本中の女師匠なり。毘沙門祠後の待合岡目に往きて復び飲む。秀梅欷歔啼泣する事頻なり。其聲半庭の虫語に和す。是亦春本中の光景ならずや

   9月2日〜青山霊園

曇りて風涼し。午後青山墓地を歩み紅葉山人の墓を展す。墓石の傍に三尺ばかりなる御影石の圓柱あり。死なば秋露のひぬ間ぞおもしろきといふ山人が辭世の句を刻したり。

   9月17日〜雑司ヶ谷霊園

午後雜司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覺院殿浄華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。

   9月24日〜田村百合子に逢ふ〜

夜有樂座に徃く。偶然田村百合子に逢ふ

   9月30日〜三千院を訪ねる〜

未明知恩院門前にて屋外劇の稽古あり。午後松莚子夫妻と自働車にて大原の古寺三千院及寂光院を訪ふ。沿道の風景絶佳なり。

   10月1日〜屋外劇の催

午後知恩院樓門にて屋外劇の催あり。劇は松葉子の作信長なり。觀客數萬人に及び演技は雜沓のため中止の已むなきに至らむとせしが、辛じて定刻に終るを得たり。

   10月4日〜島原の角屋

午後吉井君と島原の角屋に飲む。夜九時半の汽車にて歸京の途につく。此夜月またよし。

   10月5日〜コレラ病〜

朝十時新橋に着す。初めて市中コレラ病流行の由を知る。

   10月12日〜醍醐寺を訪ふ〜

松莚子夫婦と自働車を與にして洛外の醍醐寺を訪ふ。堂舎の古雅、林泉の幽邃、倶に塵寰の物ならず。

   10月13日〜清元秀梅

夜、清元秀梅大阪の實家に用事ありて昨夜東京を出發し唯今京都の停車場に下車したりとて余が旅館に電話をかけ來る。京極の翁屋といふ牛肉屋に飯し、三條通の旅亭に憩ふ。深更秀梅寢亂れ髪のまゝ大阪に赴きぬ。

   10月14日〜法然院銀閣寺

微雨。鹿ヶ谷法然院及銀閣寺を訪ふ。

   10月19日〜清元秀梅

雨歇む。松莚子神戸興行先より書を寄す。清元秀梅既に歸りて東京に在り。烏森の某亭に飲む。

   10月31日〜岩崎男爵別邸

午後深川公園より淺野セメント工塲の裏手を歩み、此頃開放せられし岩崎男爵別邸の庭園に憩ひ薄暮に至るを俟ち明治座前の八新に徃く。松莚子招宴の約ありたればなり。歸途半輪の月明なり。

   11月2日〜森先生全集〜

歸途富士見町與謝野君の邸を訪ふ。森先生全集刊行の事につき、編集委員を定むべき由。同君より電話ありたればなり。

   11月13日〜清元秀梅に逢ふ〜

松莚君電話にて、明治座出勤午後三時過なればとて、風月堂に招がる。徃きて午餐を與にす。歸途日蔭町村幸書房を訪ひ、烏森の某亭にて清元秀梅に逢ふ。

   11月22日〜清元秀梅と飲む〜

晴れて風寒し。清元秀梅と牛込の中河に飲む。

   12月10日〜清元秀梅と飲む〜

毎日天氣よく風なし。夜帝國劇塲に徃き、それより清元秀梅を訪ひ烏森に飲む。

   12月17日〜清元秀梅と逢ふ〜

夜清元秀梅と烏森の某亭に逢ふ。秀梅は曾て梅吉の内弟子なりしが、何かわけありし由にて、其後は麻布我善坊の清元延三都といふ女師匠の許にて修業をなし、その札下の師匠となれるなり。去年の暮ふと飯倉電車通にて逢ひ立話せしが縁となりて、其後は折々わが家にも來るやうになりたり。今年の夏頃は牛込麹町邊の待合に度々連行きぬ。其後しばらく電話もかけ來らざれば如何せしかと思居たりしに、今月のはじめ又尋ね來れり。清元の事を音樂とか藝術とか言ひて議論する一種の新しき女なり。父は大阪の商人なる由。

   12月18日〜坪内博士〜

晩間東京會館にて帝國劇場募集脚本審査會議あり。始て坪内博士に紹介せらる。博士は余が先考とは同郷の誼みもあり、共に大久保余丁町に住まわれしが、余は今日まで謦咳に接するの機なかりしなり。

   12月20日〜一群の鴻雁〜

晩食前散歩。赤阪見附を過ぎし時、一群の鴻雁高く鳴きつれて薄暮の空を過ぐ。近年雁聲を聞くこと罕なれば、路頭に杖を停めて其影を見送ること暫くなり。

   12月23日〜清元秀梅と歩む〜

冬の日窓を照して暖なり。終日机に凭る。唖々子書を寄す。版食の後清元秀梅と銀座を歩む。

   12月27日〜清元秀梅と飲む〜

清元秀梅と神樂坂の田原屋に飲み、待合梅本に徃き、秀梅の知りたる妓千助といふを招ぐ。此夜また暖なり。

   12月29日〜秀梅と逢ふ〜

午後微雨。雜録耳無草執筆。夜、半輪の月明に、風靜にして暖なり。秀梅と逢ふ。

大正12年(1923年)

   1月5日〜お房と飲む〜

水道の水今朝は凍らず。雜誌女性の草藁をつくりし後、四谷の妓家に徃きお房と飲む。

   2月26日〜與謝野寛生誕五十年の祝宴〜

帝國ホテルにて與謝野寛誕辰五十年の祝宴あり。

   3月28日〜祇園の櫻〜

午前十時過京都驛に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖氣五月の如し。祇園の櫻忽開くを見る。夜島原に遊ぶ。

   4月2日〜お房來る〜

午後四谷のお房來りて書齋寢室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。

   5月20日〜五百羅漢

緑町四丁目羅漢寺の小さき石門を過ぎたれば、一時この寺に移されたる舊五ツ目羅漢寺の事を問はむとせしが、寺僧不在にて得るところなし。江戸名所の五百羅漢は五ツ目より明治二十年頃この緑町に移されしが、後にまた目黒に移されたり。是予の知るところ也。

   6月14日〜鐵砲洲稻荷

歸路大伍子と新大橋より川船にて永代橋に至り、越前堀を歩み、鐵砲洲稻荷の境内を過ぎ、明石町にて大伍子と別れ家に歸る。

   7月8日〜有嶋武郎

午前愛宕下谷氏の病院に徃く。待合室にて偶然新聞紙を見るに、有嶋武郎波多野秋子と輕井澤の別莊にて自殺せし記事あり。一驚を喫す。

   7月11日〜唖々子逝去〜

午後速達郵便にて井上唖々子逝去の報來る。夕餉を食して後東大久保の家に赴く。既に靈柩に納めたる後なり。弔辭を延べ燒香して歸る。

   9月1日〜関東大震災

空折々掻曇りて細雨烟の來るが如し。日將に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し嚶鳴館遺草を讀みゐたりしが、架上の書帙頭上に落來るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を辨せず。兒女鷄犬の聲頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが爲なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排いて庭に出でたり。數分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。稍安堵の思をなす。

(中 略)

ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を觀望す。十時頃江戸見阪を上り家に歸らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家來りて予の家に露宿す。葵橋の火は靈南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて病む熄む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。

   9月9日〜小山内吉井兩君〜

午前小山内吉井兩君太陽堂番頭根本氏と相携へ見舞に來る。小山内君西洋探検檢家の如き經裝をなし、片腕に東京日々新聞記者と書きたる白布を結びたる。午後平澤夫妻來訪。

   9月10日〜平澤夫妻〜

昨夜中洲の平澤夫妻三河臺内田信哉(ママ)の邸内に赴きたり。早朝徃きて訪ふ。雨中相携へて東大久保に避難せる今村といふ婦人を訪ふ。平澤の知人にて美人なり。電車昨日より山の手の處々運轉を開始す。不在中市川莚昇河原崎長十郎來訪。

   9月11日〜平澤今村の二家〜

雨霽る。平澤今村の二家偏奇館に帶留することゝなる。

   9月17日〜風呂屋開業〜

兩三日前より麻布谷町通風呂屋開業せり。今村令嬢平澤生と倶に行きて浴す。心氣頗爽快を覺ゆ。

   9月18日〜谷町の錢湯〜

正午再び今村令嬢と谷町の錢湯に徃く。

   9月23日〜今村お榮

今村お榮は今年二十五歳なりといふ。實父は故ありて家を別にし房州に在り、實母は藝者にてお榮を生みし頃既に行衞不明なりし由。お榮は父方の祖母に引取られ虎の門の女學館に學び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に歸りて今日に至りしなり。其間に書家高林五峯俳優河合の妾になりゐたる事もありと平澤生の談なり。祖母は多年木挽町一丁目萬安の裏に住み、近鄰に貸家多く持ち安樂に暮しゐたりしが、此の度の災火にて家作は一軒殘らず烏有となり、行末甚心細き様子なり。お榮はもともと藝者の兒にて下町に住みたれば言語風俗も藝者そのまゝなり。此夜薄暗き蝋燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜實顔に後れ毛のたれかゝりしさま、錦繪ならば國貞か英泉の画美人といふところなり。お榮この月十日頃、平澤生と共にわが家に來りてより朝夕食事を共にし、折々地震の來る毎に手を把り扶けて庭に出るなど、俄に美しき妹か、又はわかき戀人をかくまひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。

   10月3日〜天罰覿面〜

されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄關に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は實に天罰なりと謂ふ可し。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ國帑復空しからむとす。外觀のみ修飾して百年の計をなざゝ(ママ)る國家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

   10月13日〜露店櫛比〜

再びお榮を伴ひ三菱銀行に赴く。馬場先門外より八重洲町大通、露店櫛比し、野菜牛肉を賣る。

   10月16日〜市中の光景〜

災後市中の光景を見むとて日比谷より乘合自働車に乘り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野廣小路に至る。淺草觀音堂の屋根廣小路より見ゆ。銀座京橋邊よりは鐵砲洲泊船の帆柱もよく見えたり。

   10月20日〜松莚子〜

松莚子今朝上野を出發、北陸道をめぐり京都に赴くといふ。夜に入り半輪の月明なるに、時々驟雨來る。

   10月25日〜平澤夫妻〜

曇りて風寒し。この日平澤夫妻吾家を去り下總市川に移る。

   10月27日〜お榮去る〜

今村お榮祖母と共に吾家を去り、目白下落合村に移居す。

   11月9日〜酒井君來談〜

午前酒井君來談。客月吾家に避難せしお榮を迎へ家事を執らしむべき相談をなす。

   11月11日〜お榮來る〜

午後二時過、酒井君お榮の手荷物を扶け持ち自働車にて來る。お榮罹災後は鏡臺もなく着のみ着のまゝの身なれば、手荷物一包にて事極めて簡素なり。書齋の爐邊に葡萄酒を酌み酒井君の勞を謝す。山形ホテルに赴き夕餉を倶にし歸り來りて、臺處風呂場を掃除し、派出婦を雇ふ。

   11月19日〜鏡臺を購う〜

微雨晩に霽る。微雲半月を籠め温風春の如し。お榮の鏡臺を購はむとて倶に四谷を歩む。

   12月19日〜南葵文庫〜

午後南葵文庫にて三縁山志を讀みゐたるに、一人の老人あり。椅子に坐し讀書する中、突然嘔吐し、顔色土の如くになれり。文庫の役員來り、醫師を招ぎ診察せしむる間もなく、息絶えたり。腦充血とのことなり。嗚呼死は何人と雖免れがたし。古書に對して老眼鏡を掛けしまゝ登仙するは寧羨むべし。

   12月31日〜塵埃烟の如し〜

午後三菱銀行に徃き銀座を歩みて歸る。日比谷より下町へかけて塵埃烟の如く、自働車來るや咫尺を辨せず。況んや連日の晴天、路上人馬絡繹、黄塵濛々たり。歸宅の後爐邊に櫻痴先生の懐徃事談を讀む。晩飯を喫して後お榮を伴ひ、山形ほてるに松莚子を訪ふ。

大正13年(1924年)

   1月1日〜災後の新春を祝す。〜

松莚子と晩餐を共にすることを約したれば、小星を伴ひ、山形ホテルに徃く。池田大伍子を待ちしが來らず。市川荒次郎、河原崎長十郎、市川桔梗、市川莚八等と、黄金の盃を擧げて災後の新春を祝す。黄金盃は松莚子多年大入袋の金子を貯蓄し、これを純金に替へしものなりと云。去年罹災の際門弟之を取出せしなり。十一時過家に歸る。

   1月2日〜先考の墓を拜す〜

晴れて好き日なり。お榮を伴ひ先考の墓を拜す。夜五山堂詩話を讀む。

   1月15日〜黎明強震〜

黎明強震。架上の物墜つ。門外人叫び犬吠ゆ。余臥床より起き衣服を抱えて階下なるお榮の寢室に徃き、洋燈手燭の用意をなす中、夜はほのぼのと明けそめたり、此日輕震數囘あり。

   2月5日〜天然痘流行〜

天然痘流行の由。巡査屡來りて種痘を強ゆ。此夜近隣の町醫者を招ぎ種痘をなす。

   2月16日〜淺草の方〜

更に淺草の方を臨むに、花川戸の人家地震の後皆假小屋なれば、觀音堂二王門及び五重の塔よく見ゆ。五重塔は上より三層目の欄干まで見ゆるなり。觀音堂の大屋根こなたの堤より眺望すれば雄大広壯言ふばかりなし。

   3月3日〜泉岳寺

泉岳寺に赴き牧野鉅野の墓を探りしが、震災にて碑碣大方倒壊して其の所在を知らず。空しく歸る。高輪邊寺院の梅七分通り花開きたり。

   4月20日〜白山蓮久寺

午後白山蓮久寺に赴き、唖々子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を寫し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。

   4月22日〜目白不動

日輪寺を出で目白不動の祠に賽す。境内には西洋づくりの病院の如きもの普請中にて、東豐山の風致も既に破壊せられたり。

   4月24日〜梔子の實〜

お榮と銀座を歩み、櫻田本郷町の生藥屋にて偶然梔子の實を購得たり。近年藥舗も西洋風になりて草根木皮を蓄ふるもの稀になりぬ。

   5月3日〜お榮日夜介抱〜

遽に頭痛を覺え讀書執筆共に爲し難し。左の肩より頸筋へかけ後頭部ずきずきと痛むなり。今日まで覺えしことなき頭痛なり。額田博士を招ぎ診察を請ふ。特に藥を用るほどの病にはあらずといふ。お榮日夜介抱に怠りなし。

   5月14日〜千住小塚原

曇りて風あり。午後電車にて千住小塚原に至る。刑場跡の地藏尊は猶汽車線路土手下にたちてあり。回向院別院を訪ひ鼠小僧と直侍との墓を掃ふ。箕輪電車にて王子に至る。三河嶋尾久あたりの水田壟圃悉く細民の棲息する所となれり。飛鳥山を踰へ大塚に至り、新宿澀谷を過ぎて家に歸る。夜雨。

   5月28日〜銀座を歩む。〜

小星を携へて銀座を歩む。

   6月4日〜松莚子來訪ふ。〜

(※「日」+「甫」)時松莚子來訪ふ。本郷座稽古の歸途なりといふ。小星を伴ひ山形ホテルに徃き晩餐をの馳走に與る。

   7月9日〜弘福寺燒跡〜

森先生の忌辰なれば日盛に家を出で向嶋に赴く。弘福寺燒跡は一面の花畑となり、孔雀草、千日草、天竺葵など今をさかりと咲亂れたり。堂宇再建の様子もなし。

   9月15日〜八幡宮境内〜

空曇りて風冷なり。午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木塲を過ぎ、洲崎遊廓を歩む。

   9月22日〜六阿彌陀詣

微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿彌陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ龜戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿彌陀を巡拜せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雜草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に殘りたり。

   10月29日〜酒井晴次氏來談〜

微恙あり。藥を服用して羅山文集をよむ。酒井晴次氏來談。お榮の事につきてなり。

   11月11日〜小星病あり。〜

午前酒井君來訪。小星今年夏の頃より病あり。今に癒えず、殊に生來多病にて永く箕箒を秉るに堪えされば、一時家に還りて養生したき由。酒井君を介して申出でぬ。熟談してその請ふにまかせ、祖母の家に還らしむ。お榮酒井君の周旋にて予が家に來しは、恰去年の今月今日なり。其日を同じくして去る。奇ならずや。此夜月また明なり。陰暦九月または十月の望なるべし。

   11月12日〜酒井君の居宅を訪ふ。〜

お榮の事につき市ヶ谷薬王寺前酒井君の居宅を訪ふ。

   11月16日〜難波大助死刑〜

日曜日。快晴。都下の新聞紙一齊に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎之門にて攝政の宮を狙撃せんとして捕へられたる書生なり。大逆極惡の罪人なりと惡むものもあれど、さして惡むにも及ばず、又驚くにも當らざるべし。皇帝を弑するもの歐洲にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく歐洲文明皮相の模倣にあらざるはなし。大助が犯罪も亦模倣の一端のみ洋裝婦人のダンスと何の擇ぶところかあらんや。

   11月25日〜金錢を私せし事〜

快晴。お榮わが家に在りし時金錢を私せし事露見し、酒井氏嚴談に及び、幸にして損害を償ひ得たり。

   12月5日〜松陰神社

立冬以後日々快晴。氣候温和なり。午後世田ヶ谷村三軒茶屋を歩み大山街道を行くこと數町。右折して松陰神社の松林に憩ひ、壟圃の間を行く。

   12月29日〜川崎の大師堂

曇りたれど温暖春の如し。午後川崎の大師堂に賽し、裏門より野徑を歩み、細流に沿ひて鹽Mの海邊に出づ。沖の方より海苔をつみたる小舟列をなして歸り來り、折柄の上汐に乘じて細流を上り行けり。水邊の漁家皆籬邊に海苔を干したり。

大正14年

『斷腸亭日乘』A

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