明治38年(1905年)、吉井勇は新詩社に入社。 明治40年(1907年)7月28日から8月27日まで、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人で九州西部を中心に約1ヶ月の旅した。 明治41年(1908年)4月、石川啄木上京。観潮楼歌会等で親交を結ぶ。 明治41年(1908年)12月、木下杢太郎は北原白秋、吉井勇らと新詩社を脱会し、「パンの会」を興す。 昭和8年(1933年)、吉井勇は妻と離別。 昭和9年(1934年)11月、土佐に入り猪野々(香北町)に廬(渓鬼荘)を結んで隠棲。 昭和11年(1936年)、琴平、多度津、丸亀、高松などに遊んだ。 昭和11年(1936年)6月8日、下関から門司に渡る。10日、高浜虚子が欧州旅行の帰途、関門海峡を通過する。 昭和12年(1937年)、高知市へ転居。 昭和13年(1938年)10月、土佐から京都に移る。 昭和20年(1945年)2月、富山の八尾町に疎開。 昭和27年(1952年)5月28日、吉井勇は孝子夫人と共に天草を訪れる。 昭和30年(1955年)6月、札幌市の丸善で個展を開催することになり北海道に旅をした。 昭和31年(1956年)5月、阿蘇に遊ぶ。 昭和34年(1959年)3月、長崎を訪れる。 昭和34年(1959年)12月3日、博多に赴き、稲佐山の歌碑除幕式に出席。 昭和35年(1960年)11月19日、74歳で没。 |
京都祇園建仁寺にて、吉井勇告別式 案のごとくしぐるゝ京となりにけり
『流寓抄以後』 |
吾もいつか越びとさびぬ雪の夜を八尾の衆と炉端酒酌む |
この町のとりわけひとり善人の秋路笛吹く月夜あかりに |
山の町秋さびし町屋根の上に石のある町八尾よく見む |