永井荷風ゆかりの地
永井荷風生育地
永井荷風(1879〜1959)小説家、随筆家。本名壮吉。別号断腸亭主人など。作品には『あめりか物語』、『腕くらべ』、『墨東綺譚』や『断腸亭日乗』などがある。 荷風は、明治12年(1879年)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほど麹町の官舎へ) 明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。 『狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。 「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処(そこここ)に売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。・・・・」 小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである・・・」とある。 |
午後白山蓮久寺に赴き、唖々子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を寫し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。
『斷腸亭日乘』(大正13年4月20日) |
歩みて表町の通に出で、金富町の横町をまがり、余が舊宅の塀外をめぐり、金剛寺坂の中腹に出でたり。
『斷腸亭日乘』(昭和8年1月1日) |
秋陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩す。傳通院前電車通より金富町の小徑に入る。幼時紙鳶あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しきこと怪しまるゝばかりなり。舊宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇立みて舊宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの靜けさ却てむかしに優りたり。
『斷腸亭日乘』(昭和16年9月28日) |
秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば從つて其裏手なるなか町の様子も今は全く舊觀を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金富町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、裏隣の昔田尻子爵の邸には東方社の札下げられたり。もと來し道をたどり安藤坂に出で、牛天神の境内を見て後、表の石段を降るに安藤坂の下民家取拂はれ、諏訪神社の社殿のみ空地の上に取殘されたり。諏訪町の民家半分ほど取壞されたり。
『斷腸亭日乘』(昭和19年9月21日) |