2021年東 京

松陰神社〜吉田松陰先生像〜
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東急世田谷線松陰神社前駅下車。

松陰神社通り商店街を行くと、世田谷区若林に松陰神社(HP)がある。

松陰神社


ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命
吉田松陰 先生)

松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年(1863年)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。

明治15年(1882年)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。

吉田松陰先生像


(鋳造:平成25年 ブロンズ)

 明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。

 松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ1年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。

大熊氏廣(安政3年(1856)〜昭和9年(1934))

明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21〜22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名。

御社殿


松陰先生像


松下村塾

 松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842年)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857年)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太朗らによって明治25年頃まで続きました。

 松陰先生は嘉永5年(1852年)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855年)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄繰されていた)してから安政4年(1857年)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858年)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実ともに認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ケ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、野村靖、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。

 本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。

吉田松陰先生


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