旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの女性

内田八重

 大正3年(1914年)、新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍。

 大正4年(1915年)2月、八重次と離婚。

新橋巴屋八重次明治四十三年十月より大正四年まで、一時手を切り大正九年頃半年ばかり燒棒杭、大正十一年頃より全く關係なし新潟すし屋の女

『斷腸亭日乘』(昭和11年1月30日)

大正7年(1918年)

歸途新福にて八重次唖々子と飲む。

『斷腸亭日乘』(2月24日)

風烈しく薄暮雹降り遠雷ひゞく。八重次訪來る。少婢お房既に家に在らざるが故なり。

『斷腸亭日乘』(3月22日)

八重次と新福亭に會す。夜木挽町田川に徃き浦里を語る。三味線は延園なり。

『斷腸亭日乘』(4月12日)

新橋の妓八重次亦來る。夕刻大雨沛然。風漸く歇む。今朝唖々子第二子出生の由。賀すべし。

『斷腸亭日乘』(7月12日)

唖々子と倶に八重次を訪ひその家に飲む。八重次余の歸るを送り四谷見附に至り袂を分つ。

『斷腸亭日乘』(7月13日)

昨日立秋となりしより滿目の風物一として秋意を帶びざるはなし。八重次病あり。入院の由書信あり。

『斷腸亭日乘』(8月9日)

八重次來る。唖々亦來る。夜八重次を送りて四谷に至り、別れて歸る。

『斷腸亭日乘』(8月25日)

老婆しん轉宅の様子に打驚き、新橋巴家へ電話をかけたる由、晝前八重次来り、いつに似ずゆつくりして日の暮るゝころ歸る。終日病床に在り。

『斷腸亭日乘』(11月29日)

八重次今日も転宅の仕末に来る。余風労未癒えず服藥横臥すれど、心いら立ちて堪えがたければ、強ひて書を讀む。

『斷腸亭日乘』(11月30日)

體温平生に復したれど用心して起き出でず。八重次來りて前日の如く荷づくりをなす。春陽堂店員來り、全集第二巻の原稿を携へ去る。

『斷腸亭日乘』(12月1日)

宮薗千春方にて鳥邊山のけいこをなし、新橋巴家に八重次を訪ふ。其後風邪の由聞知りたれば見舞に行きしなり。八重次とは去年の春頃より情交全く打絶え、その後は唯懇意にて心置きなき友達といふありさまになれり。この方がお互にさつぱりとしていざござ起らず至極結搆なり。

『斷腸亭日乘』(12月7日)

八重次見舞にとて旅亭に來る。

『斷腸亭日乘』(12月12日)

大正8年(1919年)

夜八重次來る。

『斷腸亭日乘』(2月16日)

座右に在りし狂歌集表帋の綴糸切れたるをつくらふ。たまたま思起せば八重次四谷荒木町にかくれ住みし頃、繪本虫撰山復山など綴直し呉れたり。むかし思へば何事も夢なり。

『斷腸亭日乘』(5月4日)

巴家八重次藝者をやめ踊師匠となりし由文通あり。

『斷腸亭日乘』(5月19日)

重ねて新富座に人形を看る。図らず場内にて八重次に逢ふ。夜、月佳し。

『斷腸亭日乘』(8月9日)

微恙あり、心欝々として樂しまず。たまたま舊妓八重次近鄰の旗亭に招がれたりとて、わが陋屋の格子先を過ぐるに遇ふ。

『斷腸亭日乘』(9月20日)

銀座義昌堂にて支那水仙を購ひ、午後母上を訪ふ。庭前の楓葉錦の如し。母上居室の床の間に剥製になせし白き猫を見る。是母上の年久しく飼ひたまひし駒とよぶ牡猫なること、耳のほとりの黒き斑にて、問はねど明かなり。八年前妓八重次わが書斎に出入りせし頃、津ノ守阪髪結の家より兒猫を貰來りしを、母上駒と名づけて愛で育てられけり。爾來家に鼠なく、駒はよく其務を盡して恩に報ひたりしに、妓は去つて還らず、徒に人をして人情の輕薄畜生よりも甚しき事を知らしめたるのみ。此夜母上駒の老衰して死なむとする時のさまを委しく語りたまひぬ。

『斷腸亭日乘』(11月23日)

大正11年(1922年)

松莚子に招がれて風月堂に飲む。醉歩蹣跚獨り彌生に至り八重次に逢ふ。

『斷腸亭日乘』(1月28日)

雨ふる。夜芳町の妓家に飲む。唖々子來り會す。銀座清新軒に至りて更に一酌し陶然として家に歸る。八重次の手紙あり。感冒久しく癒えず。昨夜俄に血を吐くこと二囘に及び、長谷川病院に入り、生命あやうしといふ。愕然酒醒め終夜眠ること能はず。

『斷腸亭日乘』(2月3日)

雨歇む。午後草花一鉢を携へ、長谷川病院に八重次を訪ふ。受附のもの面會謝絶の札貼てありといふ。余は人目を憚り唖々子の刺を通ずるに、病室幸にして見舞の人なき由。漸くにして逢ふことを得たり。前日の手紙は精神昂奮のあまりに識せしものなるべし。重患なれど養生すれば恢復の望なきにはあらざるべし。

『斷腸亭日乘』(2月4日)

大正14年(1925年)

昨夜就床の後胃の消化不良の故にや、腹鳴りて眠ること能はず、硝子窓薄明くなりしころ漸く睡につきしに、忽舊妓八重次に逢ひたる夢を見たり。およそ夢といふもの覺むると共に思出さむとするも得ざるが常なるを、昨夜の夢のみいかなる故にや、寤めたる後もありありと心に殘りたり。かの女靜なる庭を前にしたる中二階の如き家の窓に倚りゐたるを、われ木の間がくれに見て忍び寄り、頻に舊情を暖めむと迫りしかど、聽くべき様子もなかりし故悄然として立去りぬ。余かの妓と馴れそめし昔といへども、さまで心を奪はれゐたるにはあらざりしを、況んや別れてより十餘年を過ぎたるに、突然かくの如き夢を見んとは、誠に思ひもかけぬことなり。八重次震災の後羽根澤のあたりにシュウ(※「イ」+「就」)居なせる由人より聞きしが、今はいづこに住めるや、それさへ定かには知らざるなり。重ね重ね笑ふべき夢なりけり。

『斷腸亭日乘』(12月13日)

大正15年(1926年)

八重次は美人なりとの噂もありしかど、越後の女なれば江戸風の意氣なるところに乏しく、白鳩銀子は今様の豐艶なる美人なりしかど、肩いかりて姿は肥大に過ぎたるを憾となせり。

『斷腸亭日乘』(1月12日)

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